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慈悲は神様の永遠の状態

(明慧ネット)最近何人かの同修と接触して、お互いに協力する中で自分の執着心が知らないうちに出てくることを発見しました。初めの頃は気付かなく、自分の状態が前より穏やかではないと思い、物事にぶっつかったら焦ってしまい、慈悲は私からだんだん遠くなると感じました。

 朝、出勤の途上で「慈悲は神様の永遠な状態」(神韻音楽会歌詞)の言葉が突然頭から出てきて、神様が問題にぶっつかった時や、矛盾にぶっつかった際にどんな解決方法を取るのかを考えて見ました。私は急に分かってきました。大覚者は慈悲で衆生を教えるのです。私は自分が常人の思惟で低次元の思惟に入り込み、自分が修煉者だということをすっかり忘れていたことに恥ずかしくなりました。修煉者は矛盾に遭った時、問題にぶっつかった時に内に向かって、矛盾のなかで自分の執着心を修めないといけないのです。心を修煉することに工夫して、問題があったら相手の立場から考えなければいけないのです。

 師父は修煉者が無私無我、正法正覚を修煉することを期待しているのです。しかし私は一回一回心を修める機会を失ってしまいました。私は自分が修煉の道で意地気がなかったことを後悔し、同時に自分に問題を見つけた際に再び相手に注目して相手の欠点ばかり見て自分を探さないことは絶対許せないと警戒しました。本来であれば、相手の不足を見た時に自分に照らして自分を探すのが修煉であるのですが、私は他人を直させようとして、自分を見ていなかったのです。これこそ、旧宇宙の私利ではないでしょうか?

 朝起きて師父に敬香したとき、「慈悲は能く天地の春を溶かし 正念は世中の人々を救う可」(『洪吟二』〈法正乾坤〉)の言葉が頭の中から出てきました。師父の洪大な慈悲に感謝を申し上げます。一回一回弟子の手を繋げて、弟子に家に帰る道を導いてくださっているのです。

 慈悲は修煉の境界であって、大法の修煉のなかで不断に昇華させ、不断に次元を高めるのです。慈悲は神様の永遠な状態であるのです。

 2008年7月3日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/2/181274.html