日本明慧
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修煉における反省

(明慧日本)最近、学法を通して、私は修煉の状態ということについて、新しい認識を持つようになりました。ここで書き出して、私と同じような困惑を持っている同修の参考になれたら嬉しく思います。

 一、時々、学法をする時に心を静めることができず、学法をする時は、いつも師父は大法弟子が良くできているところを見たくなる、そして、自分がその中の一員であるかのように想像したくなります。いつも、自分は学法の中で良くできている学習者であるかのように思い、決して自分の問題を見つめなおそうとせず、ただひたすら自分の執着を隠し、その時が来れば皆と同じように円満成就するのだ、と思い、自分を騙し続けてきました。

 二、仕事があるので、毎日家に帰ると非常に疲れを感じます。そのため、学法・煉功をそれほどまじめにしなくなりました。時々、学法をすると煉功をしなくなります。実は、逆から見ると、一日24時間の中で、会社に行くのはたったの8時間、家に着いてあと十数時間あります。寝ることが大半の時間を占めており、決して時間がないわけではありません。たくさんあるはずです。これらの時間をしっかり利用して、本当に自分自身を良く修めることができれば、考えも広がり、法を実証する道も広くなります。時々、何をすれば良いか分からなくなる時は、法を良く学んでいない時です。良く行えて考えの中にひらめきがある時は、良く修めている時で、神による助けがあります。

 三、まだ若いせいでしょうか。いまだに30歳になったばかりで、それに加えて妻が非常に優しいので、情に対する執着が非常に強くなっています。それも、精進できない一つの原因になっています。時々、情も放下して、すべてを放下したら、生きていて何の楽しみがあるのか、と悲観的な気持ちが生じることがあります。これは、情による妨害です。悲観的な気持ち自身は、情の表れであり、情はさまざまな現像を生み出し、修煉者を惑わせます。これらのいずれも自分自身の考えではありません。しっかり考えてみれば、結婚する前、自分は精進できたのに、なぜ今となって情を重く見て、情に縛られているのかというと、やはり法をしっかり認識していないから、大法を人生のある種の趣味として求める心を抱いてみなしているからです。ある理想が実現できなくなったのを見て、また新しい理想を求めて、人間社会の中で追い求め、この理想を人生の理想とみなす人間がいます。ですから、いわゆる常人の温かさと幸せを感じたら、大法を重く見なくなります。困難を見ると、後ずさりしてしまいます。もし本当に大法を自分の命よりも重要だとみなせば、その大法を妨げるものはありません。

 四、どんなに長い年月が経っても、人々に死はおとずれます。時々自分は、生死を放下できたと思っていますが、真にその生死を放下できることとは、まだかなりのギャップがあります。正しく自分を認識することは、自分自身に対して責任を持つことであり、自分自身の時間を大切にすることであります。

 以上の認識は、個人の次元によることですので、認識に間違いがあるかもしれませんが、書き出して同修のためになれたら嬉しいです。

 2008年7月4日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/6/28/181049.html