日本明慧
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善意をもって相手を理解する


 文/中国大法弟子・任重

(明慧日本)善意をもって相手を理解することは観念を打破する宝です。常人の観念ではなく、修煉者の正念あるいは「神念」を持たなければならないことを、私達は大法の法理から学んでいます。一方、具体的な修煉の中で、千百年来、頭の中で常人の理を形成してきたため、時々正念と「神念」ではなく、やはり常人の観念で物事を考えてしまう同修も多くいます。とはいえ、私の周りに善意をもって自分が遭った難関をよく乗り越えた同修も何人かいます。つまり彼らは人間の観念ではなく、我々の本性で物事を考えるのです。

  たとえば、昔、私は友人たちに対してたくさん怨みを抱えていました。なぜかというと彼らはみな私の仲の良い友人ですが、私が迫害されて仕事を失った後、彼らはだんだん私から離れていきました。そこで、今どん底に落ちた私を見て、みんなが遠ざかったと私は憤りを感じ、怨みの心が生じました。怨みを取り除くことができた時もありますが、また出てきた時もあります。出てきた時に私はとても落ち込みます。

  この友人たちを救い済度することに関して、私の潜在意識の中に、この人たちはこんなに良くないので、救うことができず、淘汰されても仕方がない、という悪い一念がありました。私の心がこの友人たちへの怨みをまだ抱えていたからです。それに気づいてから、私は自分の観念を変える努力をし始めました。つまり善意をもって相手を理解し、この友人たちは本質的には良い人で、みんなかつて師父の身内であり、私自身とも昔とても大きな因縁を結んだことがあり、彼らは中国共産党の嘘の宣伝を聞いて大法弟子を誤解し、そして中国共産党の「連座」政策を怖がって大法弟子に近づく勇気がない、この意味で言えば彼らも被害者です。また中国共産党が作り出した無神論と拝金主義の環境に汚染されてこんなに利己的で、無感覚になった、と思ってみました。このように思う時、彼らに対する怨みは自然に無くなりました。

  親戚は私が危難に陥った時、助けの手を差し伸べてくれなかったと思い、私は親戚に対しても深い怨みを持っていました。彼らはもう私の親戚ではなくなり、その上とても悪い人になったと思っていました。それから私は相手の立場に立って反省するようになった時、心の扉も開けました。誰にも自分達一家の生活があり、また私は彼らに正式にお願いもしていなかったので、私の事情を彼らはまったく知りませんでした。私は彼らをこんなふうに思うべきではなく、彼らは良い生命です。怨みは私自身の邪推に由来したものであり、このように考えるうちに、私はずっと抱えていた親戚たちに対する怨みも、いつの間にか消えてなくなっていました。

 2008年7月9日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/6/28/181047.html