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新唐人が妨害を受けたことについて


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)邪悪は、新唐人を妨害し、衆生を救い済度することに妨害をもたらしています。しかし、私達にとってさらに驚いたことは、これほど大きなことが発生し、全体にとって一つの重要なプロジェクトが破壊されたにもかかわらず、たくさんの同修は、自分自身の項目に集中していて、あまり新唐人の妨害について気にしていないようです。明慧ネットに掲載された文章からも、このことが反映されています。ですから、この現象は、私達の新唐人に対する態度を反映しています。このことについて、以下二点のことにおいて皆さんと交流したいと思います。

 一、世間で成立するには一つの場が必要

 「いかなるものもこの世に立脚し、存在でき、成り立つには必ず肝心な要素があるわけです。つまりこの空間において一つの場を形成しなければならないことです。この場は物質的な存在です。」(『ヨーロッパ法会での講法』)

 新唐人が世間で立脚し続けるには、大法弟子によってそれを支え合う必要があります。つまり、大事にすべきということです。なぜなら、新唐人は私達全体が邪悪を取り除く法器であるからです。一部の同修のたとえは、本当に考えさせられるものがあります。例えば、旧勢力が大法の書籍を破壊することができるのは、たくさんの大法弟子が大切にしていないからで、新唐人テレビも同じだ、というたとえが最も端的に表しています。私達海外における大法弟子は、それほど多くの精力と財力をかけてできた新唐人について、私達大陸にいる同修たちは、新唐人テレビの衛星受信機を設置しないのは、本当に大法の資源を無駄にしています。考えるだけでも心が痛みます。

 一つの段階には、一つの段階に対する要求があります。最初は、一部の同修が重視すれば足りたかもしれませんが、法が正されるにつれて、より多くの全ての同修、特に大陸にいる全ての同修が重視する必要があります。しかも、このように資源を無駄にしてはいけません。

 二、消極的に待つことや積極的に円容させること

 私達はもう一つの問題に気づきました。たくさんの観客、もちろん同修も含めますが、新唐人テレビが見れなくなったことについて、まず設置してくれた同修もしくは常人の技術者に話をしてみたら、ヨーロッパのユーテルサット社の問題だと聞いてから、新唐人テレビ局の同修が交渉するのをずっと待っていました。待つという状態は、自分の内に向けて探すことではなく、または内に向けて探す一念はあるかもしれませんが、その一念は確かなものではありません。そのため、自分の問題点に気づきずらいものです。それゆえ、私はすでに自分を探しましたが、見つかりませんでした。ですから、まず人の面から解決しようという一念を抱いてしまったのです。これでは、私達は一つの修煉の機会を失ったのではありませんか。なぜ待つのでしょうか。なぜ、数少ない新唐人の同修に頼るのでしょうか。これは全体における問題ではありませんか。これは私達個人における問題ではありませんか。私達は人を待つとき、考えるべきです。皆さんは私を待っているかもしれません。私が、自分自身が待つことを変えるのを、常人の惰性および依頼する情を変えるのを待っているのかもしれない、ということです。

 2008年7月9日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/7/3/181409.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/7/8/98791.html