修煉の進歩は後悔の積み重ねから生じるものではない 文/台湾大法弟子
(明慧日本)修煉の過程で、関や難に遭った時、時にはすぐに法の基準に従って対応することができず、心性を守れないで不精進の状態に陥ることがあります。その後いつも、なぜあの時上手くできなかったのかと悔やみます。実は法があり、基本的な法理も分かっており、多くの基本的、根本的な法理を私達はとても明らかに分かっているはずなのに、しかしなぜ間違い、後悔してから、再び過ちを犯すのでしょうか? 大きい事、小さい事にも関わらず、どれほど繊細な一念でも、なぜ即時正しくしないのでしょうか!
神と仏は自分に後悔させる事をせず、自分の境界に相応しくない事は行いません。多分このような観念さえもないかもしれません。同様に、大法弟子として、なぜ法理をはっきりと分かっているにも関わらず、しっかりと行わないのでしょうか? 間違ったら後悔すると思うものの、なぜまた迷うのですか?
私は余りに悔やむこと自体も一つの有為であり、到底修煉は後悔の積み重ねによって成り立つものではないと思います。正々堂々としてするべきことをしっかりと行ったほうがよいのではないでしょうか。
2008年7月10日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/7/2/181265.html)
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