日本明慧
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唐山大地震の生存者は、今また災難に遭っている

(日本明慧)河北省唐山の大地震は、1976年7月28日、明け方の3時42分に発生し、マグニチュードは7.8級に達した。この地震で死者は20数万人に達し、16万人が被災し、無数の孤児と身体障害者をもたらした。当時26歳の劉桂錦さんは、腰椎の第一、二、三節の粉砕骨折、寛骨の骨折、恥骨関節を骨折し、右足の筋肉の極度の萎縮のために不具となり、排便機能を18年間失った。彼女は、18年の苦痛の苦しみの中で、悲しみのあまり死を願った。それからまた腟癌になった。彼女は遺影を撮り、遺書を書いて、世を離れることを願った。

 この時奇跡が発生した。70代の年取った母が、法輪功を修煉して、全身の病気がすべて無くなり、ねこ背もまっすぐになった。家人は彼女に法輪功を修煉すべきだと言うと、劉桂錦さんは「私は既に、死んだと同じでどんな功を修煉しますか?」と答えた。家人は彼女に法輪功のビデオテープを見るように教え、見終わった後に、彼女は慣例によって病院に行って検査したところ、医者は驚いて彼女に聞いた。「こぶはどうしてなくなったか?!」 劉桂錦さんは、半信半疑で、その他に二つの病院に行って検査したが、結果はすべて同じだった。もしこの事が、自分の身に発生していなければ、彼女はまったく信じられなかった。

 1994年3月、劉桂錦さんは続けて、石家荘、天津とハルビンの法輪功講習会に参加した。本当に、身を処する基準が分かり、心性が高まると、体に巨大な変化が発生して、また強度の近眼鏡がいらなくなった。法輪功は彼女に第二の生命を与えた。劉桂錦さんは大法を修めて、身体障害が直り、命を保った。中共が法輪功に残酷な弾圧を加えたが、強制的に、修煉を放棄させることは、彼女に師の恩を裏切らせることだった。

 99年9月、劉桂錦さんは北京順義区の家で、脳血栓で年をとっている父と両眼とも失明している母の面倒をみていた。順義区の公安支局の勝利派出所の多くの警官は、人倫を顧りみず、わけもなく、彼女の家に飛び込んで、不法に家財を差し押さえて、数千元の価値ある大量の大法の書籍、録音テープ、ビデオテープと個人の貴重品を奪い去った。傍観者は「警官は堂々と財物を奪い、彼女を連行した」と言った。

 唐山に帰った後に、カク東平等邪悪な輩は、劉桂錦さんが頑固に法輪功を堅持していることで、道北の支局の一科(「610弁公室」)の人員・許伯軍と大里路派出所の警官を指図して、もう一回、唐山市路北区48番の団地の劉桂錦さんの家に飛び込んで、家財を差し押さえ、劉桂錦さんと、他に連行された大勢の法輪功修煉者を行政留置場に拘禁した。昼間、20数人の大法修煉者を太陽の下でさらして、しゃがませ、3〜4個のれんがを肩につるして縛り、少しでもバランスをくずせば打った。太陽にさらした後、大きい肥桶を首の上から掛けた。

 警察は劉桂錦さんを重点的に攻撃すべき、きわめて少数の確固な法輪功修煉者とみて、大北刑務所の留置場に拘禁した。そこで煉功したら、悪徳な警官・李徳生が彼に手錠をかけると、警察で「両手でささげ持つ」と呼ばれる、3人がひとつの手錠をかけて、「つながり」、ひとつ手錠を両手と両足にかけて、更に針金でねじって「撫でる」と呼ばれるもので、食事をすることも、トイレに行くこともできない。人を大の字形にベッドの板の上で、手錠をかけた。「ぴんと張る」と呼ばれているものだ。

 冬の「三九」(一番厳寒)の時、刑務所は法輪功修煉者を、ただ一つのぼろぼろになったセメントだけを敷いた地面に寝かせた、四方の壁はすべて氷と霜だ。劉桂錦さんのところから1冊の『転法輪』を探しだすため、刑務所は彼女に重い刑具を手につけたので、4日後に、彼女の手はこわいほど腫れた。外さなければ、不具になってしまう。みんなが強烈に呼びかけて、やっと解かれた。それからまた、18斤の大きい足かせを付けられて、歩くとセメントにごろごろとこだました。足かせをつけられた20日後に、両足は不具になった。

 99年9月、劉桂錦さんは警察に9カ月近く拘留された。劉桂錦さんは警察の残虐な拷問で不具になってしまった。武装警察に順番に背負われて、唐山の公安の病院に送られて急診をうけたこともあった。彼女の家族に4000元の医薬費を請求したが、家族がこのお金が出せないため、公安の病院は直ちに劉桂錦さんに対する緊急措置を停止した。家に帰った劉桂錦さんは法を学び、煉功して、健康を回復した。

 2001年8月20日、劉桂錦さんが2回目に警察に連行されて、不法に拘禁された時、正信を堅持して、修煉を放棄しないため、残酷な苦難を受けた。道北区の公安の支局の1科の許伯軍は劉桂錦さんに対して暴力を使った。その時、劉さんはすでに、苦しめられて不具になり、また深刻な心臓病を患っていた。

 8月24日、唐山市公安局の第一処のカク東平と市の公安局の局長と唐山路北の支局の警官は自ら、劉桂錦さんを周りの町の玉田県留置場に送り届けて、劉桂錦さんに対して残虐な拷問を加えた。 9月3日に警官が二つのスタンガンで電撃を加え、ミネラル・ウォーターの瓶を使って打ち、彼女を何度も人事不省になるまで苦しめて、彼女の腰部から頭のてっぺんまで、スタンガンを持続的に使って、2時間苦しめた。彼女の両足は知覚を失って、心臓病が現れて、意識がなくなった。彼女が留置場に返された時、顔と首はすべて腫れていて、口の中に鬱血があった。

 翌日の朝、劉桂錦さんの体は氷のように冷たくて、血圧が40になり、県の病院の救急センターに送り届けられて緊急措置をとった。2日以降に、政保科の人は「彼女に唐山に死んでいかせる」と言って、依然として解放しなかった。そこで9月10日に、劉桂錦さんは唐山市の第一留置場に送り届けられて、10数日立ったままで罰された。元の勤め先は家に迎えることを命令された。堅忍不屈の劉桂錦さんは法を引き続き学んで、煉功すると、体はもう一回、回復した。

 2008年の5月12日、四川省ブン川で発生した大地震は、全世界の善良な人々の心に影響を及ぼした。劉桂錦さんはブン川の人民の被る苦難を見て、自分が唐山大地震に遭難した情景を連想した。特に数百、数千の幼い遺体が白色のビニールシートの下で横たわっているのをみて、彼女の心はひどい苦痛を感じた。本当に広大な衆生を救うことができる大法を、これらの苦難に遭っている同胞達に伝えて、彼らのために災難を取り除き、この大きな災難の中で生命を救いたいと思った。

 しかしブン川の大地震が発生して3日目、劉桂錦さんはまた第3回目に、北京順義区家の中で北京の警察に連行された。

 32年前の唐山の大地震の生存者は、32年後の今日、人為的な災難がまた訪れて、彼女は人身の自由を失ない、身は牢獄の中で苦難に耐えている。警官は親族の接見を許さず、彼女と外部の連絡を断絶した。

(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)

 2008年7月11日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/5/25/179109.html