同修を見て 自分を高める 文/清風
(明慧日本)幸福は誰もが憧れ、求めるものです。人が考える幸福とは、実は欲求の満足であり、努力を通じて、或いは手段を選ばず争って個人の目標を達成することです。このような幸福は短いもので、長く続きません。名の為、利の為、更には情の為に幸福を感じる人もいます。実は本当の幸福は俗世間の中にはありません。
ある日、同修との交流の中で、利益の心について話しました。この同修は農村に生活していますが、皆さんもご存知の通り農村の仕事はとても多忙なので、冬になって、やっと少し暇になります。どんなに忙しい時でも、同修は自分の家の仕事を終わらせてから、直ぐに他人の手伝いをして稼いでいました。しかし稼いだ金は残らずすべて衆生を済度する為に用いています。同修は日々、年々を通して厳しい日差しの下、汗を流して働いて稼いだものを少しずつ貯めて、奉仕をしています。同修にも子供がいて家庭を持っていますが、私は同修の勤労と辛苦を深く感じました。
同修から、このような無私、無我で、衆生を救い済度する話を聞かされて、私は、とても心が打たれ涙が溢れました。ここで、私は同修が偉いと賛美するつもりはありません・・私は自分の利己的なことと貪欲さを発見しました。同修と比べてどれだけの差があるのかを意識しました! 正法は最後の最後にきて、私達は衆生が助かる唯一の望みなのに、私の心はやはり麻痺しており、まだ自分の生活の夢に憧れて常人の中での幸福を追求しています。お洒落をして、家を雰囲気よくし、未来を明るくしたい心を持っています、このような私心を持って平然と喜捨することができるでしょうか? 「捨てるということは常人の心に執着しないことの体現です。 もし、本当に平然として捨てることができ、心が動じない人であれば、実は、すでにその次元にいるのです」(『漏れるところなし』)。
現在、私達の一挙一動、一存一念を、神はすべてきめ細かく観察しておられます。私達の一存一念をよくとらえて、自分を輝かせ修煉の過程で遺憾を残さないようにする、これこそが正法時期の大法弟子のするべきことです。
次元に限られ、妥当でないところをご指摘ください。
2008年7月16日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/7/181599.html)
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