日本明慧
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全体的協力・「一念」も協力する

—— 新唐人が妨害されたことにより体得


文/大陸・大法弟子

(明慧日本) 師父は私達に、何かがあれば内に向かって探すよう要求されています。新唐人テレビが妨害された後に、私も自分の非を探しました。新唐人を広めるに当たり自分は努力が足りないと分かりました。私はアンテナを設置する事ができるものの、あまり重視していないため、三つしか設置しかしていませんでした。その中には自分の家のも含んでいます。

 自分の不足を探し当てましたが、しかしこの事はやはりまだ解決していません。問題はどこにあるのでしょうか? 新唐人が妨害されるこの大事件は、恐らく私達の1人や2人の漏れだけが原因ではないはずです。すると全体的に問題があるのではないでしょうか? またどこに全体的な問題があるのでしょうか?

 今日の午後、発正念で新唐人を妨害する邪悪を一掃した時、頭の中に四つの文字が現れました、「全体協力」。

 私達は法理の中から全体的な協力の重要性を知っています。同修の間、彼の事は即ち私の事でもあります。しかし、現実の中で私達はそれをやり遂げているでしょうか?

 同修を救援することを例に挙げます。多くの同修は知らない人に対して真相を説明する際に連行されています。出て来て知らない人に真相を説明する同修はすべて偉いと思います。彼らが災難に遭うこと自体が、出て来ない同修の分も引き受けていることになります。しかし今日にまで至って、同修が連行されたと聞いて、私達はどのように考えたのでしょうか? どのように行動したのでしょうか? 「彼のどこかに漏れがあって邪悪に隙に乗じられたのではないか?」と思い、そして彼の為に漏れを探し、できたら納得するのでしょうか? 私達は承知しません。では全体的に協力し合って彼を救援しようと思い、そして救援の方へ走るでしょうか?

 更に私達の普段のプロジェクトを例にしましょう。表面上では私たちは自分自身の事に忙しくしているように見えますが、実際はすべての人に自分自身の歩む道があるためです。しかし他の同修がプロジェクトをするのを知った時、私達はどのように考えますか? 衛星アンテナを設置することについて話しますが、たとえば誰か同修がもっぱら衛星アンテナを設置していると聞いたら、その時どのように思いましたか? 思ったのは「彼は一つを設置していくら貰うのだろう、私は自分が設置するとリスクがあり、彼は一つ設置してどれくらい儲かるのだろう?」、 やはり「これは大変よい事だ、正念で彼を加持しよう」と思いますか?

 また新唐人が邪魔された事件を例にしましょう。私達はこれを聞いたばかりの時にどのように思いましたか?「どっちみち私はテレビを見ないから」と思うか、或いは「これは邪悪が妨害しているので私たちは承認しない」と思いますか? 私個人では、インターネット上でニュースを見た後、邪悪が破壊していると分かり、それを承認しないと思いましたが、しかしすぐに、「まずい、これから新唐人を見ることができなくなる、幸い私はたくさん設置しなかった」との思いが浮かんできて、これは修煉者の考えにかなうのでしょうか!

 正法は最後の段階に至っており、私達は必ず全体が協力し、自分の一念一存をもしっかり把握して、邪悪に妨害されないようにしましょう。

 私は法を得てまだ2年に満たず、個人的な浅い認識であり、妥当でないところはご叱正ください。

 2008年7月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/15/182084.html