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陝西漢陰県の法輪功修煉者・呉新明さんが中共の迫害により死に至った

(明慧日本)2008年6月25日、陝西漢陰県游渦鎮の中共邪党のならずものが法輪功修煉者・呉新明さんの家に乱入した。当時、労働教養所ですでに迫害を受けつくして、気息奄々となっていた呉新明さんはベッドの上に横たわっていた。このような状況下にもかかわらず、これらの人間性のまったくない邪悪の徒らは呉さんにいわゆる「保証書」を書くように強要した。呉さんは断固として拒否した。

 6月26日未明、まだ40歳の呉新明さんは冤罪が晴れないまま息子と娘、そして70歳の高齢の両親を残してこの世を去った。

 法輪功修煉者・呉さんは、肉体と精神面で深刻な迫害を受けた。彼はかつて3回にわたって強制的に労働教養所に入れられ、陝西省棗子河労働教養所で残忍非道な迫害を受け、痩せこけて危篤状態に陥った。労働教養所の悪人らは、中で死なれると困ると考え、迎えに来るようにと地元に知らせた。当時、呉さんは迫害のあまり、自力でベッドから立ち上がることすらできなかった。

 2001年1月、呉さんは、漩渦鎮で人々に法輪功の真相説明を行った際に現地派出所の悪人らに不法逮捕され、家にあった法輪功資料と書籍すべてを略奪された。その後、呉さんは漢陰県の留置場に監禁された。邪党の政治法律委員会書記・張政民は、呉さんに法輪功への信条を放棄するように強要し、そうでなければ会社から除名すると脅した。呉さんは法輪功を固く信じ、決して妥協しなかった。悪人らは前後の見境もなく怒って呉さんに労働教養2年という判決を下し、強制的に呉さんを陝西省棗子河労働教養所へ送り込んで迫害を続けた。

 労働教養所の中で、悪警らは麻薬中毒者らを利用して、呉さんを教養所の事務室の中で縛り、木製の長い腰掛けを振りまわして交代で呉さんに暴力を加えた。呉さんは前歯が何本も折れ、腰も負傷した。教養所から出てきた麻薬中毒者でさえ、中国共産党は残忍すぎると言っている。悪人は呉新明さんが少しも妥協しないのを見て、ますます気違いのように迫害し、トイレにも行かせず睡眠も取らせないなど、数多くの邪悪な手段を利用した。

 呉さんの妻は息子と娘を女手一つで育てながら苦難に満ちた生活を送っていた。2003年呉さんが家に帰った時は、会社からすでに強制免職されていた。会社に行って仕事を回復するようにと求めたが、会社の人たちは呉さんに公安局をたずねるようにと言い返し、かえって彼に「保証書」を書くように強要した。このように呉さんは現地の公安局、司法局、県委員会、人民代表大会に行って真相を説明すると同時に仕事を回復するよう求めたが、610、公安局の悪人らは彼のことを酷く憎んでいた。

 2003年10月、610主任の張宗銀と国保大隊長・夏錦秀、張樹生、譚平海らは呉新明さんを県の公安局に不法逮捕した。また、呉さんにでっち上げの罪名を被せて、棗子河労働教養所に監禁した。そこの悪人らはあらゆる迫害手段を用い、残虐さを増した。不法役人らは2寸もの太い棒が砕けるまで呉さんを殴り、それによって呉さんの内臓は打ち壊された。労働教養所は人命をごみのように取り扱い、呉さんは迫害を受けて気息奄々とした危篤状態に陥った。

 労働教養所の悪人らは、呉さんが教養所の中で死ぬことを恐れて、漢陰県公安局に迎えにくるように知らせた。もともと呉さんの妻と子供たちは、県庁所在地の町で部屋を借りて生活していたが、漢陰県の610悪人の張宗銀とその他ならずものらは気息奄々となっている呉さんを数十キロも離れている田舎の実家に送り込もうとし、しかも搬送の途中彼を捨てて、戻っていったという。

 呉さんはもう少しで命を落とすところだった。彼の両親は70歳を越えていて、迫害を受けている悲惨な息子の様子をみて涙が止まらなかった。しかし、苦情を訴えるところもなかった。家に帰ってから呉さんは法の勉強と煉功を始め、身体はとても速く回復し、両親はまた希望をもつようになった。

 2006 年6月15日、呉さんは町に出て法輪功真相説明を行った際に、真相を知らない人に告発されて、公安局と610に逮捕され、再度棗子河労働教養所に移されて引き続き迫害をうけた。労働教養所の邪悪な徒らは呉さんに信条を放棄するように強要し、彼を縛りつけた。呉さんは迫害に反対して絶食を行った。悪警らは呉さんの胃に管を挿し込んでから胃の中に濃度の濃い塩水と唐辛子の水、洗剤の液体を注入した。

 呉さんは死ぬことよりも辛い苦痛を受けた。悪人は彼が妥協しないことを見て、またもや新しい残虐な体刑を作り出して彼を苦しめた。つまり、彼の体を縛った後、電線で作られた鞭でひっきりなしに叩いた。呉さんの体はぼろぼろになった。

 長きにわたる迫害を受けて、呉新明さんは体調を崩し、咳が止まらず、大量の血を吐いた。体重が70キロあった呉さんは迫害を受けつくして今や骨と皮しかなく、危篤状態に陥っていた。労働教養所の悪人らは、呉さんが教養所の中で死ぬことを恐れて、漢陰県公安局に迎えにくるように知らせた。長期にわたる残酷な迫害により、彼の体は極限に達し、肉体と精神上で巨大な苦痛を受け、冤罪が晴れないままこの世を去った。

 2008年7月20日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/7/10/181774.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/7/12/98891.html