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自分の中に深く隠れている「私」を見つけた


文/北アメリカの大法弟子

(明慧日本)私は大法を得た後、非常に「精進」して修煉し、大法の真相を伝え、衆生を救うためのプログラムに積極的に参加しました。しかも、自分から能動的にできることを探し、よりよい作用を発揮するよう努めました。

 しかし、数年前に主人の仕事の関係で、遠く小さな町に引越ししなければなりませんでした。この小さな町の法輪功修煉者は私一人でした。一番近い「学法、煉功点」へ行くのに、車で2時間半もかかります。私は主要な協調人でしたが、突然、行なっている大法のプログラムから離れました。この小さな町の住民の90%以上は白人で、この地のお年寄りの方は東洋人の顔を珍しいと見ていました。このような大きな環境の変化に私は衝撃を受け、この地の生活に適応するために長い時間がかかりました。しかし、私はこの町のコミュニティの中心に「煉功点」を設立して、「どこへ行っても修煉者として三つのことをしなければいけないのだ」と常に自らに言い聞かせました。ところがこの期間は、いつも落胆して心のバランスがとれなくなり、また心を落ち着かせることもできませんでした。大都市に住む修煉者たちは直接多くの大法のプログラムや大法の真相を伝えることなどに参与できているのに、私は電話とインターネットを通じてしか参加できませんでした。大都市に住む同修が羨ましかったのです。もっと華人の多いコミュニティに真相を伝えたい……(私はかつて長い時間をかけて華人のコミュニティで大法の真相を伝えたことがあります)。なぜならば、私はこの手のことについては、すでに多くの経験を積んでいるからです。また法の理解ももっとしたく思うのです。現在、この中心地から遠く離れた地区で同じことを続けることは不可能になっています。しかし、華人のコミュニティの近くに住んでいる多くの修煉者は環境があるにもかかわらず、勇気がなく、なかなか華人のコミュニティに大法の真相を伝えるという行動ができないでいます。この現状に私は多少焦っていました。

 この焦りと心のバランスが取れていない状況の下、私は学校へ行くための試験準備を始めました。試験のプレッシャーもあり、大法でやるべきことに参与することもなかなかバランスが取れず、これができても、あれができません。自分の個人修煉もだんだん緩んできました。「どうせ私一人がここにいても、以前のように同修たちと一緒に頑張ることはできないのだから」と考えていたのです。このような状況は最近まで続きました。しかし、師父の『2008年ニューヨーク法会の説法』のある段落を読んで急に目が覚めました。

 「一部の地区の学習者が少ないからといって、または一部の地区の学習者の間にずっと論争が存在しているからといって、皆さんの法を実証すること、衆生を救い済度すること、甚だしい場合、個人の修煉まで消極的になってはいけません。あなたは自分を台無しにしています。知っておかなければならないのは、私はずっと、大法弟子が物事を見るとき、必ず逆の立場から見なければならないと言っています。三界は逆になっていますが、皆さんは正しく歩まなければなりません。」

 私は最初この段落の説法に留意していませんでした。師父の「佛学会」に意見がある学習者に対する説法であると思っていたのです。数回勉強した後、師父がある地域に学習者が少ないことで、修煉や真相を伝えることに消極的になっている、そのような学習者への忠告であることに気がついて、震撼したのです。「私は周りに学習者が少なく、環境の変化があったから、消極的になってしまった」と思い込んでいたわけです。

 私は落ちついて、「自分はどういう心境なのか、なぜ消極的になったのか」と自らに向けて捜し始めました。ある日突然、自らの内に見つけたことは次のようなことでした。「すべてやることには目的を設け、この目的が自分の利益と一致すれば行動する」という「目的論」が自分には深く刷り込まれていたのかもしれないと……。

 深く刷り込まれている「目的の心」を捜し出すことで、「過去を決定したすべての基点は『私』だった」と分かりました。大法の真相を伝えることの基点は衆生のためではなく、自分を見せるためだったのです。自分を見せることは昔住んでいた地域から引越ししたことによって、すでにできなくなったので、消極的になったのです。

 私にとって、勉強のことも同様でした。「私」のための理由を見つけ、その原因が目の前に現れてから、ようやく勉強する気になっていたのです。今までは、自分のいわゆる「利益」の定義に一致することで勉強をしていましたし、「自ら抵抗するかの如き心境」で勉強をしていました。時には、自ら逃げることすらありました。それは自ら定義した「利益」を享受したいためであり、「私」の感覚を満足させるためだったのです。そうしてまた、勉強を続けられるようになったわけです。この「私」は、変異した「私」でした。深く隠れている「私」を修煉の理由をもって、大法のことを行なう理由をもって、隠そうとしていたのです。

 本当の理由とは何なのでしょうか? 個人修煉のこと、大法のことを行なうこと、真相を伝えること、普通の生活の責任を持つことなどに消極的になった本当の理由とは、すべて「私」だったのです。深く隠れている「私」は、修煉の裏にも隠れていました。この「私」は、長い間自分が認めた「自己利益」の方式で存命してきたものです。修煉し始め、修煉で「自己利益」があると思い、また真相を伝えることで「自己利益」があると思い、大法のことを行なうことで「自己利益」があると思って、「自己利益」があるからこそ行なっていたのです。根本的には「人のため」の基点で行なっていませんでした。

 私は思わず自分に質問をしました。「私に深く隠されている『私』は本当にどこから来たのですか?」「なぜ今になって見つけることができたのですか?」 私が消極的であった理由は、外からの妨害ではなく、修煉と生活のバランスが取れないことでもなく、すべてが「私」からのものでした。他の理由は、まったくの言い訳だったのです。

 私は今まで完全に「人のため」という基点で、一つだけでも何か行なったことがあるでしょうか? 「衆生に真相を知らせるために伝える中、自分は何らかの利益を得ることができるのか?」 このような思いは頭の隅っこに少しでもなかっただろうか……? このような皮算用の心でいくら大法のことを行なっても、根本的に「私」のための行ないであることに変わりはありません。根本的に「私」のためなので、バランスが取れないのです。「私」のための行ないですから、さまざまな行動の間には、必ず衝突するものがあります。それは「私」の本性で、避けられないものです。宇宙の特性「真・善・忍」に対して、「私」は歪んだものですから、当然、衝突するはずです。通常の生活の責任まで放置して、表面的に見れば、真相を伝えることができているかのようです。実際のところ、これは修煉の基礎がしっかりしておらず、根本的に自らを「人のための自分」に変えていないからでした。

 もし、本当に「人のため」であれば、ねじれはあっても衝突はしません。日常生活の一つ一つの行動、言葉、「人のため」にすること、一つの心、考えの出発点は、「人のため」でありさえすれば、いわゆるバランスが取れないといったことにはなりません。では何のためにバランスを取っているのでしょう? 自らの「利益」のためなのでしょうか?

 大法の真相を伝えるとき、根本的に「人のため」でなければ、自分の「利益」と一致することを優先させ、大法のことをさぼりがちになってしまいます。真相を伝えることも、学校のことも同様で、とにかく生活の中で自分の「利益」を優先させてしまいます。これは心の奥深いところで、自分の本質的な利益を放下できない現れなのではないでしょうか? 私は本当に修煉しているのですか? それとも「表面を取り繕った」修煉だったのですか? 自らのその他の「利益」のためだったのですか? 同修間での「名」に執着してのことなのですか? 私はなぜこんなにも多くの汚い「私心」を持っているのでしょう?

 ここまで考えて、私は冷や汗をかくと共に、涙してしまいました。「師父、私はこの汚れている心は要りません。頭の中に深く隠したくありません。このような曲がった考えは要りません」と心から思ったのです。

 そして、心から師父にこう誓いました。「私は純粋に修煉をしたく思います。真相を伝え、『三つのこと』を良くできるようにしたいのです。自分の生活の責任も果たしたく思います。私は修煉者として、これらのことをバランスよく行ないたいのです。その理由は、自分の『利益』のためではなく、何らかの『目的』のためだったり、自分のためでもなく、完全に『人のため』なのです」と……。

 以上は自分が現在悟っていることです。同修には、私の誤りを慈悲をもってご指摘願いたいのです。

 2008年7月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/1/181251.html