■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/07/25/mh261975.html 



「命の危険を冒してまで」ということについて

文/大陸大法弟子

(明慧日本)最近、私はある同修の書いた修煉体験「命の危険を冒して」を読みました。ここで、もう一つの角度から、この言葉に対する理解を皆さんと交流したいと思います。

 これまで、私は修煉を始める前に、よく「どうか、思ったことが達成できますように」というお祝いの言葉を聞きました。私は学法や煉功を通して、この言葉は古人から由来する最大の祝福の言葉であり、あなたが心の中で思えばすべて実現できるような大覚者になることを祈っているということです。つまり、その時あなたの周りのすべては、あなたの意念の変化に従って変わるからです。なぜならば、それはあなたの世界だからです。師父は『洪吟(二)』の中で、「進めば則(すなわ)ち萬萬物と成る可し 退けば全ての無永く是謎」(「無」)とおっしゃいました。

 師父はまた、空と無は執着心がすべて消えることを意味しているとおっしゃいました。考えてみましょう。「命の危険を冒して」というのはどのような意味でしょうか。たくさんの常人の観念が含まれているのではありませんか。修煉者のあるべき思想境地から甚だしく離れているのではありませんか。

 師父は説法の中で、高い次元になれば、それはすなわち選択になるとおっしゃいました。法を正す時期の大法弟子として何を選択すべきか、私としては、無の状態の中で三つのことをできるだけたくさん行い、常人の観念を少なくし、常人の念を動じないことです。その時、あなたが常人の念がない状態で真相を伝え、資料を作ることは、決して命の危険を冒すという概念すらありません。なぜなら、私達はそのような概念する選択しないからです。

 もう一つの角度から言いましょう。この問題を考えすぎると、すなわち求めることになり、迫害されることを求めてしまいます。そうなると、他空間の邪霊たちが隙に乗じて、あなたを迫害してしまいます。師父も何もすることができません。なぜならば、これはあなたが求めて来たものであり、あなたが選択したものだからです。

 師父が私達に教えてくださったのは、内に向けて探し、法を多く学び、神が人間世界に来たかのように実行することです。

 次元に限りがあるため、正しくないところはご指摘お願いします。

 2008年7月25日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/7/15/182094.html

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