言うと言われる 文/タイの大法弟子
(明慧日本)私がこれからお話しする「言うと言われる」は、同修に対して不足を指摘したり、同修に不足を指摘されることを言います。これら2つの関係は互いに補完しあっているものです。
まず同修に対して不足を指摘することについてお話しします。以前に経験したことは、私の多くの認識と観念を変えました。あるコンピュータ技術を持っている同修は、資料点の技術面のトラブルを解消したり、技術を伝えるため、いつも各資料点の間を奔走していました。そのうち、この同修は学法や煉功が停滞してしまいました。ある日、その同修が私達の資料点にやって来ました。学法の停滞については他の同修から注意がありましたが、その同修は事の重大性を理解していませんでした。ある日、この同修は他の同修とレストランで食事をした時に、国保のスパイに尾行され、最後に不法連行、不法労働教養処分を科されました。事件の後、私はとても後ろめたく感じました。私自身は同修の不足を見ても、真っ正面から言ってあげることに気がひけていました。かえってコンピュータが少しトラブルに遭ったくらいで、私はその同修に頼むほど、むしろ依存の心が増していたのです。この事件によって私は次のことを悟りました。一つの全体として、同修の不足を見たら、彼のために責任を持って善意で指摘してあげるべきなのです。相手は一時的に悟っていなくても、あるいは一時的にこれを排斥していても、将来彼はきっと本質を見極められ、同時に同修に対して役に立つことなのだと……。
この中で挙げた、善意で同修の不足を指摘してあげること自体も、修煉の項目であると思います。最初は相手に指摘してあげるときに、私はとても強い個人的観念や、自分の個人的基準を持っていました。時には表面上では平穏で、言葉遣いも落ち着いているように見えますが、相手はやはり認めないのです。自分はとても不思議に思いました。「……私の言ったすべてが理に適っているのに、なぜ話を聞いてくれないのだろう? 受け入れてくれないなんて、とても不愉快だけれども、聴くかどうかは勝手にすればよい。どの道、道理は言ったのだから。彼は失敗しないと改心しないだろう」……こう思ってしまうのです。私は自分の言うことはとても理に適っていると思っていましたが、個人的な要素を無理に押しつけていました。これは本当に同修を助け、同修と平等に心を割って不足について交流することではありません。意識しないうちに、偉ぶった教育式観念を持ち込んでいたのです。顕示、闘争、怨恨、自分を実証する心を混ぜ込んでいるのですから、この方面で人心を無くしていない同修から受け入れられないことも当然だと気付きました。自らまずこれらの不足を認識しました。すると、最初の頃より同修も次第に受け入れてくれ、認めてくれるようになりました。自分の話の中の人心の有無、純・不純を意識して、問題があればすぐにそれを無くします。多くのあまり意識していない部分は、師父が私達のためにこれらの人心と物質を外へ押し出し、それを暴露してくださいます。ふつう常人の中で現れてくるものは、大概常人、あるいは同修の言動を利用して私達自身に反映されてきます。その中から、いかに人心を修めなければならないのかを悟らせてくださるのです。
『オーストラリア弟子に対する説法』で、師父が大法弟子に要求を出される際、慈悲を持たれて和やかな心と大法弟子の受け入れ能力を考慮して話されるそのお言葉遣いに、私達は大いに感じ入りました。同修が仙女服の問題に触れたとき、師父は直接厳格に規定することではなく、衆生を済度する角度から見ていらっしゃることを告げられ、同時に相談者に向けたお言葉をもって、この問題に回答してくださいました。師父は『オーストラリア弟子に対する説法』と他の説法の中で、何度もそのお言葉と所作(しょさ:ふるまい)で我々に啓示をくださっています。この方面でよく『オーストラリア弟子に対する説法』を見て、弟子に説法されるときの師父の「お言葉遣いや善の心、そして道理」を体験したならば、我々が話をするときにも、人に受け入れていただくのに役に立つかもしれません。
いかなる態度で自分に指摘をしてくれるのか……同修への対応について、私自身まだよくない部分を感じてはいますが、注意してくれる同修に対しては包容力のある理解をするべきだと思います。同修の本意は善いものなのですから、全体の中の一粒子として、大法を守り、全体を守ることはすべて私達の責任なのです。時には個人の要素を入れがちなものですが、私達はなるべく自らを内に向け、その問題が自分にどう起因しているのかを判断するとともに、寛容な態度を持つべきです。おそらく注意を受けた同修は、相手を認めることで自分が相手よりも修煉の面で劣っているように見えると思うかもしれません。メンツを重視しているのです。しかし、このように考えてみると、これもまた嫉妬心ではありませんか。これは偶然のことではありません。肝心なことは、私達がいかに同修の指摘をチャンスとして利用して、自ら真に内に向かって探し、向上するかということです。
師父も説法の中で、いつも相手の口を借りて大法弟子に啓示をしてくださるとおっしゃいました。なぜこうしたことを忘れてしまうのでしょう? 時に一部の同修は、他人に注意されるたび、「知っています。言わなくていいです」と答えます。この事を見て私はこう思うのです。「同修よ、本当に真相がすべて現れた時、あなたはご自分の話に恥じ入るに違いないのです」と。
以上の内容は個人的な浅い考えです。不足の部分につきましては、同修からのご指摘とご叱正をお待ちしております。
2008年8月10日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/8/4/183407.html)
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