■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/08/11/mh120169.html 



学法は形式に流れてはいけない

(明慧日本)法を正すことは、すでに終わりに近づいているが、私たちの地域における修煉者たちにおびただしい問題が次々と表れて尽きません。すべての問題は枚挙にいとまがありませんが、全体としてできるだけ早く向上できるようにするため、ここで二つの大きな問題を取り上げ、法理に基づいて皆さんと交流したいと思います。

 一、読書は修煉そのものではない

 学法について、私たちの地域では多くの修煉者たちが毎日法を勉強し、繰り返し学んでいますが、法理に対してはっきりとした認識を持っておらず、その上グループで学法する時も、あまりよい効果がありません。言い換えれば、学法は形式に流れてしまい、着実に修煉していないのです。例えば、ある日学法した後に皆で交流し合ったとき、学法している問題について交流しなかったばかりか、かえってある協調人の話への討論で時間を費やしてしまいました。このことから、皆は学法を任務として行なっており、まったく心を込めて学法しなければ、どうして法理が見えてくるのでしょうか?

 学法はまず心を静めて雑念を払ってから、初めてよく学法できるようになります。学法に心が向かないときは、法に対する不敬であり、法理は自ずと顕われてこないのです。心を静めて学法できなければ、雑念や執着が一面の壁のようにあなたと法の間を隔てており、あなたを法に近づかせません。なぜこうなるのでしょうか。人の先天的な最初の自己は宇宙の特性と符合しています。しかし、人の雑念と執着はミクロ的に見ればどういうものでしょうか? 業力であり、宇宙における腐敗したものであり、宇宙の特性に背いたものです。これらのものがあなたの前に立ちはだかれば、あなたはどうやって宇宙の特性と通じられるのか、法理もあなたに現れてこないのです。学法する時、雑念と執着を取り除き、あるいはこれらのものを抑えてこそ、はじめて先天的な自己が法と通じ、法理は自ずと現れてきます。同時に大法の後ろにいる幾重にも重なっている佛道神、ないし師父の法身が、一切の不正の要素を取り除いてくださるのです。したがって、学法する時に必ず心をこめて学ばなければなりません。

 私は地元の同修に一つのアドバイスをします。つまり、人数が多くて少なくても、なるべくグループで学法し、心をこめて学法しましょう。その上、学法を通じて、互いに不足を補いましょう。

 二、盲従したり、協調人に抵抗しない

 もう一つの問題は、協調人と修煉者の関係です。多くの修煉者は何でもかんでも協調人に従い、言われればやり、言われなければ何もやりません。自主性が少しもなく、法を実証することを任務のように扱っており、心をこめてやっていません。また一部の修煉者は、自己にこだわりすぎて、まったく協調人の言う事を聞かずに、自らの観念と好みによってわがままに行動しています。そのため、相互の衝突がエスカレートし、ばらばらになってしまいました。

 「大法弟子に基準があり、法にも基準があります。一緒に集って適当にやれば合格することができるようなことではありません」(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』、2003年4月20日) 私たちの地元の同修にはこうした状態があり、どうして大法弟子の基準に達することができますか?

 宇宙はなぜ法を正す必要があるのでしょうか? 私の理解では根本的な原因は宇宙における最高の生命が利己の念で宇宙の各次元に影響を与えたため、宇宙の秩序が完全に乱れてしまって、さらに進めば壊滅してしまいます。

 私の理解では、法を正すのは宇宙のすべてを正道に立ち返らせ、利己ではない基準に達することです。そして、師父の按排によって大法弟子は法を正す修煉を通じて、無私無我の境地に達します。それによって威徳と果位を成就し、宇宙における最高の次元に帰ります。

 したがって、大法弟子として日常生活を含めたすべてにおいて、無私無我の基準に達するべきだと思います。私たちの地元の同修と協調人との問題についても、皆はもし心を静めて師父の『オーストラリア学習者への説法』を見れば、きっと問題が解決でき、よく行なえるようになると思います。

 不適切なところはご指摘をお願いします。

 2008年8月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/2/177633.html

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