■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/08/30/mh314654.html 



集団学法の環境を失ってはならない

文/貴州の大法弟子

(明慧日本)私は1996年に法を得て修煉を始めた農村地区の大法弟子です。修煉初期から法を正す時期まで、この十数年の修煉を通じて、集団学法を行うことが大法弟子全体の向上と心性の向上に如何に促進作用があるかをつくづく感じています。それゆえに、同修たちはみなこの集団学法の環境を大切にしています。

 一、同じグループのある同修とは修煉前から両家の商売がらみでいざこざがあり、深い溝ができていました。時間が経つにつれて、それはますます冷たくなり、まるで見知らぬ人のように対することさえありました。最初に学習会で彼女に会った時は、表には出しませんでしたが、心の中は穏やかではありませんでした。自分でも明らかに不愉快だと感じ、これではいけないと思いました。

 その時、私は内心で彼女がどんな態度をとろうと必ず自分から先に変わろうと決心しました。外に向かって求めることこそが修煉のもっとも大きな障碍であり、何かあったときには、まず内に向かって探し、まず自分の原因を探すことこそが修煉者と常人の根本的な違いであることを自覚していたからです。私たちは縁があって集団学法に参加しており、法理上、世間の万事万物はみな複雑な因縁関係があり、修煉の中で遭遇する出来事のすべては自分と関係があり、同じ法を修煉できるのも万古の得難い機縁であり、修煉の道のりを尊い同修と共に歩むべきで、内に向かって探し、内に向かって修めることこそがすべての執着を捨て去り,絶えまなく精進する宝物であることを認識しました。

 そして私とその同修はまもなく正常な修煉状態に入り、その後の法を実証する過程でもうまく協調することができました。他の同修たちも私たちの間に長年積もっていたトラブルが修煉して間もなく煙のように消え去ったのを目の当たりにして、「さすがに真善忍はすばらしい! 法輪大法はすばらしい!」と感激しました。これは大法の威徳の慈悲なる表れであると、私は分かっています。

 このことを通じて私は、どんなことであっても我々が法をもって量り、把握し、法に従って行なえば、人々はきっと我々の「真」と「善」を見出すことができ、大法のすばらしさを感受できることをつくづく思いました。そして、このこと自身が真相を伝えることであり、法を実証し、衆生を救い済度することではないでしょうか。

 二、ある一時期、私はひどい病業に見舞われ、腰痛で一日中家にひきこもって、学習会にも参加しませんでした。私の「病状」が日に日に悪化するのを見て、修煉していない家族は私に早く病院に行くよう毎日説得しました。何を言っても私が行かないので、彼らは傍で泣きながら病院に行くよう私に催促しました。最後には無理やりにでも私を病院に連れて行き、薬を投与し、注射を打つといった常人の方法で治療をさせるつもりでした。

 ちょうどその時、同じグループの同修は、私が長い間学習会に出ないのを心配して様子を見に来ました。そこで、自身の状況を同修に説明すると、同修は優しい声で言いました。「あなたがこんなにも長く家から出ないで学習会にも参加していないので、交流環境を失い、その結果、旧勢力の間隔要素に邪魔されているのだと思います。私が思うには、これがあなたの病業がよくならない、無視できない一つの原因だと思います。学習会に来て他のみんなと一緒に交流をしてみてはどうですか?」。同修の話を聞いて私はハッと目が覚めました。学習会の場所は私の家からごく近いところにありましたので、そのまま同修と一緒に行きました。他の同修たちも私の状態を見て、師を信じて法を信じるように発正念をしてくれました。

 私たちは輪になって座り、師父のこの方面での説法をもう一度勉強しました。「修煉は厳粛なことであり、人心に対する試練に加減はありません。執着すればするほど、気分が悪く感じます。病院に行って検査すれば、病気が重くなったという結果が出されます」(『2004年ニューヨーク国際法会での説法』)。

 師父は2006年の『ロサンゼルス市での説法』では次のようにおっしゃいました。「それなら、正念で対処すべきです。あなたは修煉者だからです。ですから、それは決して本当の病気ではありません。しかし、その現れ方は単純なものではありません」、「心が不安になっていること自体、基準に達していないということで、そのままにしても、変化はありません。面子のために我慢し続けていれば、執着に執着が重なることになります。この場合、二通りの選択しかありません。一つは病院に行って、関を乗り越えることを止めます。もう一つは、心を徹底的に放下し、れっきとした大法弟子らしくなり、怨みも執着もなく、残るか去っていくのかを師父の按排に任せます。このようにすることができれば、つまり神なのです」。

 同修たちが私と一緒に幾度も師父のこれらの説法を読んでいると、私は突然、正念がますます強くなっていくのを感じ、心もますます清らかになりました。そして、同修たちが私の周りに座り、一緒に強い正念を発しました。同時に腰痛が大幅に軽減し、体調も著しく良くなりました。同修の正念の支持の下で、病業は奇跡のように消え、私は再び法を実証する環境の中に戻る事ができました。

 私は自ら大法の正念の神威を感受し、集団環境の中に溶け込んだその時の玄妙さを確かに体験しました。ここで私の修煉体験をもって、同修たちに善意なる忠告をしたいと思います。「決して集団学法の環境を失ってはいけません」。

 個人の体験につき、不適切なところは同修の指摘をお願いします。

 2008年8月30日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/8/24/184662.html

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