迫害の認識から脱出する
文/大陸大法弟子
(明慧日本)最近、私は自分の思考の奥に迫害を黙認する観念が存在していることに気付きました。例えば、明慧ネットの迫害の文章を読むとき、大法弟子が迫害を受けた内容を見たくないのです。どうして見たくないのでしょうか? 内に向けて探すと、自分が邪悪の迫害を黙認し、迫害を傍観しており、どうしようもない消極的な心理状態であることが分かりました。
心の中で「これらの学習者は心性の問題があるために隙に乗じられた。さもなければ迫害を招くことはないだろう」と思いました。しかしその意識の下に「迫害は正しくて、あなた達自身に問題がある」という思いがありました。これはまさに旧勢力が安配したこの迫害に理由をつけ、さらに迫害を維持することではないでしょうか? これは私のあるべき考えではなく、迫害する側の立場に立っているのではないでしょうか? 口では迫害を承知しないと言いながら思考の奥では迫害を承認していて、徹底的に迫害を解体することなどできるのでしょうか?
自分を振りかえってみると、思考の中はいつもこんなふうです。「私は、より多く法を学び、内に向かって自分を修めているので、迫害には遭いません。過去に労働教養処分を受けた主な原因は自分の心性が余りよくなかったからです」。他の大法弟子が逮捕されたと聞けば、「どうして安全を重視しないの? 心性の向上に注意しないの?」と、思います。これは実際に恐怖心のために口実を探し、間接的に迫害を承認しているのです。ちょっと言い過ぎではあるのですが、これは旧勢力の「大法弟子を迫害の中で修煉させる」という古い法理を強化しているのではないでしょうか? もし私達がそれを承認すれば、未来にやって来る覚者もこのように迫害の中で人を済度し、未来の衆生も迫害される中で修煉しなければなりません。これは法を正す前の様子と同じではありませんか? ですから、いかなる理由があってもこの迫害を承認してはいけません。
旧勢力がこのように手配しなくても、大法弟子は同様に円満することができます、この迫害は余計なお世話であり、まさしく邪魔です。有害無益で、私達の修煉に余計な難を増やして回り道を作っているのです。師父は私達の修煉を例にして、99年以前は私達に集団で学法、煉功をさせ、お互いに切磋し合うように按排されました。あれは本当に最もよい道です。皆でいつも交流しては、お互いの不足を注意し合い、共に向上することができます。しかし旧勢力の手配したこの迫害は強行に我々の環境を破壊し、私達に単独で修煉させ、単独で「試練」を受けさせるのです。私達がいっしょに交流し高めあうことを阻止し、邪悪に隙に乗じさせては我々の執着心を拡大して、迫害の口実をみつけるのです。それらは迫害が私達の向上の為に存在していると思っていますが、実はそうではなく、本当は師父がいらっしゃることこそが私達を向上させるのです。
私は繰り返しこの問題を考えています。「どうして恐れるのですか? もちろん修煉の中で無くさなければならない人心はあります。例えば安逸を求める心、名情利などです。そのほかにもありますか? まさに「迫害は正しい」という観念です。迫害は正しいといえば、もちろんあなた自身が間違っているということです、だからこわがるのではないでしょうか? 三つの事をする時になぜ心の中にいつも恐怖心があり、正々堂々とできないのでしょうか? それは「迫害を承知した上で迫害に反対」しているからです、旧勢力の手配した枠の中で三つの事をしています。師父は私達に「全面的に旧勢力を解体する」ことを要求されています。
だから、私達は迫害によって人を高めるという観念を持ってはいけません、思想の中から全面的にこの迫害を否定し、師父に按排された道を歩むべきです。私達は不足があっても、自然に学法と修煉の中で正されるのです。無理に押しつけられる必要はないのです。もちろん人為的に何かをするのではなくて、自分をリラックスさせるのは修煉ではなく、徹底的に迫害を否定し、存在する余地と理由を与えないようにしなければなりません。こうしてようやく全面的に旧勢力を解体することができるのです。
2008年9月2日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/8/19/184340.html)
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