修煉と仕事の関係を正しく対処することについて 文/チチハル大法弟子
(明慧日本)長期に亘り、われわれの地区の一部の同修は、ずっと仕事がない、あるいは気に入った仕事が見つからない、ひいては仕事をする中で常人とトラブルを起こして密告されるなど、自分の正常な生活と修煉に面倒と損失をもたらしている。私は、この問題について交流したいと思う。私たちは仕事の問題において、自分たちが意識していない執着があるのではないだろうか、また修煉と仕事との関係を正しく対処できていないのではないだろうか?
「多くの学習者は煉功と法の勉強だけが修煉だと知っています。そうですが、これは直接、法に接触している部分です。着実に自分を修めるとき、あなたが接触している社会はつまり、あなたの修煉環境なのです。あなたが接触する職場の環境、家庭の環境はいずれも、あなたの修煉環境であり、あなたが歩まなければならない道であり、必ず対処し、しかも正しく対処しなければならないことで、どのこともいい加減にしてはいけません。最終的に歩み終わったら、師父が皆さんのために按排したこの道を、皆さんはどのように歩んできたのでしょうか? このすべては最後に、見ないといけません。修煉過程の中のこのすべても見なければなりません。ですから、いかなることも軽視してはいけません。便利と言うなら、人間は出家せずに修煉でき、山奥に行く必要もなく、世俗から離れる必要がなくなりましたが、もう一面から言えば、このすべてによって、別の困難がもたらされました。つまり、すべてのことをしっかり行わなければならず、いかなることもしっかり行ってはじめて、抜け出すことができるのです。」(《2006年カナダ説法》)
大法弟子はどこでも善い人であるべきで、法を実証するために、人を救うために仕事をしっかり行わなければなりません。師父は《オーストラリアの学習者に対して法を説く》ビデオで一部の学習者は、自分は修煉のためにきた、仕事のためにきたのではないと思い、結局会社をめちゃくちゃにさせたことについて提言された。実際、私たちはまず常人社会に立脚しなければならず、なぜなら私たちのこの法門は常人社会で開かれており、形式上常人と同じであり、ただ仕事をする中、人と接触し、物事を対処する際に、現した超常的な精神境界が常人と異なるだけである。
一部の学習者は仕事と修煉の関係についての理解が間違っている。「三つのことを行うのが大事であり、仕事は重要ではない;三つのことは修煉であり、仕事は修煉でない」と考え、自ら人為的に仕事と修煉を切り分けている。社会での仕事は私たちの生活の基礎であり、私たちが修煉して向上する環境でもある。このすべてを離れたら、いかに修煉し、いかに人を救うのか?もし常人が大法弟子の言動を通じて、心の底から大法はすばらしいと感じ取れたら、これ自体は真相ではないか?まさにその常人に三退を勧めるもっともよい条件になるのではないか?一部の学習者はアルバイトをする際、まだ業務も熟練していないのに、仕事の最中、来客に真相を伝え、三退を勧めることに忙しい。当然ながら、学習者の人を救いたい切なる心は正面的であり、貴重であり、人を敬服させるが、ただ仕事と修煉の関係を正しく対処でき、更にうまく世の人々を救い済度できることを望むだけである。私たち自身の修煉と向上はすべてその中にある。
私たちのこの法門が常人社会で開かれており、最大限に常人状態に符合しながら修煉するということは、私の理解では私たちに更に多くの常人に接触させるためであり、人々に大法のすばらしさを見せ、更に多くの世の人々を救い済度するためである。しかも、師父を助けて法を正す中で、私たちが行ったすべては未来の人類に参照になるものであり、ミクロからマクロまで、宇宙体系全体の円容に関連し、人間が神になる路を切り開くことにも関連する。ですから、私たちは本当に常人社会での仕事を厳粛に対処しなければならない。たとえ短期のアルバイトであっても、私たちはまじめに対処すべきである。なぜなら私たちは大法弟子であり、ある程度大法のイメージを代表しており、常人は私たちの言動によって大法を認識し、ひいては常人が救われるか否かにも関連するからである。
修煉過程はまさに互いに足りないところを見つけあい、それによりともに向上する過程である。この文はただこのことに対して書いたものであり、誰かに対して書いたものではなく、目的はともに向上するためである。足りないところについては慈悲なる叱正を請う。
2008年9月4日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/9/3/185209.html)
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