最後の最後になって
(明慧日本)何日か経ちましたが、同修の萍さんと経験したことが頭から離れません。
ある天目の開いている同修は師父の法を参考にしながら、自分が見て感じ取ったものに結びつけて、大法弟子は既に円満成就した、もう三つのことをしなくてもよい、学法、煉功をしなくても良いと悟っていました。また、他に何人かの同修と彼女自身の体得を交流しました。そのうちの何人かが彼女の悟りに疑問を抱きましたが、交流した末、彼女に賛同するようになりました。4、5人の弟子は既に師父の経文と本を片付け、今まで手がけていたプロジェクトも辞め、三つのことを完全に行わなくなりました。ある同修は仕事を辞めて自宅で静座して修煉したいと言い出し、これらの同修たちは更に他の人と交流して、認識を高めて円満成就に向かうべきだ等と言いました。
これらの状況を知った萍さんは彼らの中の一人と交流を試みましたが、修煉の道は異なっているため、人にはそれぞれの理解と修煉方法があると否定されました。それから、師父が最近発表された経文『沙を淘げる』」について交流しました。経文を読んでも、自分たちとはまったく関係のない話だと確信し、自身のやり方は、間違っておらず、次元の違いで、やり方も変わるのだと自説に固執していました。
この話を聞いて、少し驚きました。かれらは殆どが旧い学習者で、当初、迫害が深刻な時期に彼らは一度も怯えたり、立ち止まったりしませんでした、邪悪に直面し、真相を広め、「三退」を勧めました。中の一人の同修は、警察の監視、尾行、軟禁、さらに尋問の下でも恐れずに、安全に真相を伝え、衆生を救い済度したにも拘らず、なぜ正法の最後になった今になってこのように悟ってしまったのでしょうか、このような状態については「明慧」ネットで何回も言及したことがあったのに、どうしてまた現れたのでしょうか?
私は再び師父の最近の経文を読み返し、心を落ち着かせました。また、何度も同修と交流しましたが、結果は出せませんでした。萍さんと私は無言で互いに顔を見合わせ、これから彼らのために正念を発することを約束し、またの機会に彼らと交流することにしました。
今回のことで得た、多くの体得
一、師父は『沙を淘げる』の中で、「法を正すことは最終段階になり」と話されています、しかし、最後になればなるほど精進しなければなりませんし、自分のすべての執着を取り除かなければなりません。功能を求め、なにかが見えた、聞こえたものだけに執着してしまい、師父の経文を読まず、聞かないようになりました。既に警戒しなければなりません。
実を言いますと、天目で見たことについては私も体験しました。天目が開いていれば、それによって、また修煉も難しくなります。(見たことは自分の次元によるものだからです)時々に、見て聞こえたものは自分の心を動じさせ、師父の教えだと勘違いさせ、将来の道はこのように歩むべきだと執着してしまいます。その後になって気付きましたが、あれは何ものでもなく、自分の心により魔を生じたのでした。もしもその当時心性を把握できず、不正な念を生じれば、問題を起こしていたかもしれません。
二、師父はこの何年かの説法の中で、常に私たちに「皆さんの衆生を救い済度し、皆さんの先史の洪大な願いを完成させ、自分たちの誓約を果たしましょう
!」(『ご挨拶』)と話されています。時間は瞬く間に去っていく現在、いかに多くの衆生を救い済度し、三つのことをどうこなすかを心掛けなければなりません。師父が話されたように「法を正すことはまだ進んでいます」(『沙を淘げる』)。師父がずっと待たれていて、法を正すことを終了されないのは、私たちがよりもっと多くの衆生を救うためではありませんか? 同時に、大法弟子はまだ円満成就の基準に達していないからでもあるでしょう。全てがこなせていないのに、法を正すことがどうして終了しますか? もしできるとしても、このような形式の円満成就はあり得ないと思います。
三、師父が教えられた、正法の肝心な時の動きは明慧の指示に従わなければなりません。今、明慧サイトで同修たちは真相伝え、衆生の救済について交流し、講真相、勧三退をより良くこなしています。立ち止まることはできません。
四、師父は『転法輪』とその後の経文の中で幾度も、冷静かつ理智をはっきり持って法を勉強し、真に修煉を行うようにと書かれました。師父の弟子として、どうして師父の経文と『転法輪』を学習せず、煉功さえもしなくてよいと言うのでしょうか? これでどのように円満成就を保障されるのでしょうか?
修煉の道で、修めた年数、講真相の数、或は三退を勧めた人数に関わらず、よりたくさんの法を読み、法を習い、確実に心を修めることが肝心だと思います。でなければ、いざ試練が現れたとき、完璧な円容の心性を備えていなければ、円満成就と次元の向上が実現できないだけではなく、常人が良いことを行なって福を報われたことになってしまいます。
五、この事を通じて、私たちは内に向かって探さなければならないことが分かりました。至らないところがまだ残っているのではないでしょうか? 堅実に修めていないことがまだあるのではないでしょうか? 旧い学習者に対して慕い、頼る心があるのではないでしょうか?
同時に、このことは私たちにとって、一つの試練でもあります。如何なるときでも、法を以って師となし、人を以って師となしてはなりません。如何なる状況に直面しても、心動じることなく、人心、人情に動かされず、情緒不安になることなど尚更です。でなければ、旧勢力の所謂「按排」、「試練」の罠にはめられます。極端に走らず、師父が按排された道を正しく歩み、正念正行し、やるべきことをよく行えば良いと思います。
あの日以来、正念を発するたびに、彼らを想います。
同修よ、艱難辛苦、紆余曲折の道を歩き通して、どれぐらい危険にさらされ、どれぐらい挫折、魔難に遭ったことか! 法を正すことは既に最後の段階になりました。大法弟子の皆さんは落ち着いて、理性を持ち、円容して漏れをなくし、一歩ずつ確実に歩みましょう。
2008年9月17日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/4/11/176211.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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