■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/09/30/mh014371.html 



「合理的」という落とし穴から抜け出す

文/大陸の大法弟子

(明慧日本)実は本文のテーマは「人間の理を出る」とするのがもっとも適切なのですが、どうしてこう書いたのかといえば、ここに私の気づきにくい、ある意識観念があったからです。合理的なことなら承認でき、受け入れることができます。多くの人がそう思うかもしれません。表面からは「合理的なことなら承認でき、あるいは受け入れることができる」と考えるのは正しいように見えるのですが、神の道を歩んでいる修煉者にとっては、正しくありません。「合理的」とはどんな理に符合するものなのでしょうか? 人間の理ですか、それとも神の理でしょうか。人間の理に符合したのであれば、人間になり、人間の状態です。このような認識の障害の下で、大法の威力は深刻に制限されました。たくさんの被るべきではない魔難を被りました。その魔難の中の状態は合理的なことで、正常あるいはそのようなことであるべきだと思ってしまい、いつの間にか迫害を承認してしまいました。

 具体的に言うと、私は長期(3年間ぐらい)にわたって、消極的で、意気消沈した状態でしたが、発正念を堅持することによって、その状態から抜け出しました。しかし、やはり徹底的に根絶できておらず、少し大きな魔難にぶつかると、また妨害されました。どうしてこうなるのでしょうか? 人間の理を突破していないからです。人間から見れば、人は打撃を受け、迫害された後、挫折感が生じて落ち込みます。打撃や迫害がひどくなり、時間が長びき、自分が真に努力してそれを変えようとしているのに良い結果が見えてこない時、人は消極的になり消沈しがちです。これは人間には正常な反映で、これも人間の理が作用した結果です。しかし、大法の中から私達には分かりますが、初級の羅漢の果位に達した生命は常に嬉しそうで、消極的で消沈するようなことがありえますか? それではこの理ではかってみると、消極的で消沈することは、修煉者にとって合理的ですか? 師父は「道法」の中で「魔難が訪れるたびに、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこの一点を利用して尽きることのない妨害と破壊を行っていて、学習者は長期にわたり魔難の中に陥っています」と説かれました。自分はこのような情況に属していたのでしょう。この漏れを認識できてからは、容易にそれを突破できるようになり、境遇も大きく改善されました。

 これを押し広めて、今まさに大法弟子が神の風貌を現し、衆生を救う時です。大法弟子は十分に一切の正面の形象と状態を備えるべきです。恐れず、気高く、知恵、威厳、自由、楽観的など。これは法を実証するために必要であり、宇宙の選択です。

 2008年9月30日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/9/25/186516.html

明慧ネット:jp.minghui.org