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師父が最も安心できないこと


文/山東省徳州の大法弟子

(明慧日本)師父は「オーストラリア学習者への説法」のビデオの中で、最後に何度も繰り返されていました。それは、内に向けて探すことです。師父がこの話をされる時の表情を思い出すたび、私はいつも非常に恥ずかしくなります。修煉して十数年が経ちましたが、修煉においてほとんどの場合、いつも私は外に向けて探していました。自分の不足を見ることは少なく、ひいては自分が修煉者であることを忘れてしまう時すらありました。

 私は協調の仕事をして長年経ちました。同修たちと接触することが多く、自然に同修たちの修煉する状況についても詳しく分かるようになりました。ひいては、同修たちの日常茶飯事のことも私に言ってくるので、比較的、同修の執着と不足について誰よりも詳しく知るようになりました。しかし、得てして同修たちが自分たちの不足を語るとき、私は第三者として自分にも修煉すべき要素があることを忘れてしまい、同修に対して怒ったり、または同修の状態が良くないことについて非常にやる気をなくしてしまったりしました。最近になると、聞きたくないとか、常人のような部分について見たくないとか、同修と接触したくないなどと思い、協調の仕事をやめようとすら思いました。

 実際、私は考えの中で、協調を単純な仕事を考えてしまい、自分が修煉者であることを忘れ、協調を師父が按配してくださった自分の修煉環境だと見なすことを忘れてしまいました。師父はかつて、自分と関係があるにせよないにせよ、自分が出会ったことは絶対に自分と関係があると教えてくださいました。そうであれば、私達が日々接触する人や出来事は、必ず修煉の要素があり、修煉者は必ず法をもって自分に厳しく求め、言動も必ず法の要求通りに符合しなければなりません。自分の出会ったすべてのことを見てみると、内に向けて自分の執着を探し、それを取り除くべきです。すべては私達の修煉のためにあります。どうして出会ったことに常人のように対処するのでしょうか。出会ったことはすべて自分の修煉と関係があるので、修煉の時間と機縁を大切にすべきです。

 内に向けて探すのは、新しい宇宙の機制であり、師父が按配してくださった修煉の機制でもあります。師父の大法弟子として、刻一刻と無条件で内に向けて探すべきです。外に向けて探すことは、すなわち旧勢力の按配した修煉の道を歩むことになってしまい、旧勢力の機制のもとで行なうことになります。となると、旧勢力の按配した修煉の道だから、必ず師父の按配してくださった修煉の道を妨害してしまいます。あるべきではない魔難が生じたり、修煉の道で遠回りしたりして、衆生を救い済度することが妨害されます。外に向けて探すことはすなわち、魔の道を求めることです。

 私達が何かしようと考えたとき、その一念が出れば、必ずこの一念は自分のためなのか、それとも他人のためなのかと考えてみるべきです。自分のためであれば、私(し)のためであり、旧勢力のエネルギーの要素を強める行為であって、他のためであれば、本当に大法弟子の考えであり、それは邪悪を解体し、師父が法を正すことを助けることになります。

 刻一刻と内に向けて探し、師父が安心できる大法弟子になりたいと思います。同修たちと共に、本当に大法を実証できる環境を作り、師父の求められている三つのことを神聖かつ実行できるように頑張っていきたいと思います。

 2008年10月2日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/9/18/186035.html