日本明慧
■印刷版   

法を正す時期の大法弟子の称号についての悟り

(明慧日本)修煉して何年も経ちました。修煉状態は、時に良くなったり悪くなったりします。執着心は前と比べれば少なくなりましたが、いまだに根絶できません。時々それが出てきて、私を妨害します。なぜ、執着心がこれほど取り除きがたいのでしょうか。なぜ人心をこれほど放下できないのでしょうか。私は、執着心は元々自我の背後に隠れているからだと感じました。自分に対する執着、つまり自我に対する執着こそが最も根本的な執着ということになります。すべての執着の根源だと思います。すべての執着は、私が好きだら欲しい、と私が中心にあるのではないでしょうか。心の深くで自分自身を傷つけられることを恐れ、自分自身を放棄したくないがゆえに、根本的に執着を取り除けないのだと思います。

 さらに深く考えてみると、自分自身の考えの基点はすべて自分自身にあると気づきました。すべての自分自身のためにあり、ひいては三つのことをする時も、自分のためにやっているようなものです。今日はじめて私は、これほど自己中心的だと気づきました。

 長い間、個人修煉が良くできず、法を実証することもあまり良くできていません。しかし、自分はこれらをすべて正しく見ることができませんでした。自分は三つのことをいずれもやっているので、いつかは円満成就できると思っていました。しかし、心の中では落ち着かず、常に宙に浮いているように感じました。最終的に今日、自分自身に聞いてみました。私のような人間は円満成就できるのでしょうか。円満成就にふさわしいのでしょうか。もし今日すべてが終わったとしたら、私はどこに行くべきでしょうか。表面上、私がどのように表れているかにせよ、しかし自分自身は騙せません。考えてみれば、これまでに行なったすべては自分自身のためであり、動機は不純なものです。大法のため、宇宙のため、衆生のためではありません。なぜ、内心で法を正す時期の大法弟子のあるべき責任感と使命感がないのでしょうか。すべての法を正す時期の大法弟子は、宇宙の衆生に対して重大な歴史的責任を持っています。自分の内心は、なぜこのような責任に対する認識がないのでしょうか。私の一念、すべての考えはなぜ宇宙の衆生を最優先にしないのでしょうか。自分の言動はなぜ、大法と衆生を実証することを出発点にしないのでしょうか。私達は表面的に何をしようと、考えの基点や行動の出発点こそが、自分自身が宇宙の特性から離れていることを証明しているのです。それがゆえに大法の威力を備えていません。それを乗り越えれば、私たちは大法、つまり宇宙や衆生のために行なうときは、考えも純粋になり、宇宙の法理に符合するものであるがゆえに、宇宙の限りない法力があるのです。考えが純粋であればあるほど宇宙の法理に符合し、ますます大法の力を持ちます。ですから、それがゆえに正しい神々も助けてくれます。

 もし私達が三つのこをする出発点が、自分自身の円満成就のためだとなると、師父の付与してくださった能力を100%発揮できません。もし出発点が宇宙の衆生のためならば、私達の力も十分に発揮できます。本当に大法を実証し、衆生を救い済度する大きな作用をもたらすことができます。心の中では常に大法を最優先とし、宇宙の衆生を最優先とし、考えの出発点も正しくなります。考えていることや言動も法を実証し、衆生を救うことになります。このような命こそが、法を正す時期の大法弟子という称号にふさわしいのです。

 以上は個人の考えであり、正しくないところはご指摘ください。

 2008年10月4日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/9/24/186398.html