日本明慧
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口を修めることに関する悟り


文/ハルピン大法弟子

(明慧日本)あるとき、グループで勉強会をしていたときのことです。交流の席で、2人の年配の同修が私を褒めちぎりました。人を賞賛することに関しては、人によってそれぞれ見解の相違があることでしょう。ここで同修の皆さんと一緒に交流をしたく思います。

 私たちはよく「服がおしゃれですね」とか、「お元気そうではないですか」などと人を褒め、話題を作り、親近感を増したりします。私たち修煉者の場合は、常人の個々の執着心に沿いながらも真相を説明するうえで、より有利な条件を築くことが出来るのです。このように言うのも、ただただ相手のためを思う慈悲ゆえのことです。ですから(強制するような行為でない限り)、これは特に問題があることではないと思うのです。常人は自分が興味を持っている言葉、言ってほしい言葉を聞きたがるものです。しかし、私たちは修煉者なのです。師父は、逆の角度から常人の問題を見るべきだと教えてくださいました。そうではありませんか? 

 気持ちの良い言葉は、修煉者にとって、あまり有益なものではありません。なぜならば、褒められた同修は、ともすると歓喜心や顕示心、自我への執着心を生じやすいからです。たとえ同修が真によく行っているとしても、それは同修の行動が大法の要求に従っているからでしょう。大法の威力が同修の身に現れているのだと認識するべきで、同修自身がどうであるかなどと認識するべきではないと思うのです。修煉者は、言わずとも積んだ威徳は消えることはありません。しかし、同修の問題点は指摘してあげないといけないでしょう。なぜならば、そのまま放っておけば、同修は大変なことになるからです。修煉者にはそれぞれに人心が残っており、また不足があります。同修も、この人心を明確に認識しているとは限りません。では、もしも私たちがお互いに法の勉強と修煉に関して、真に切磋琢磨出来たならば、どのようになるでしょう? 皆それぞれが内に向かって真に探すことが出来るでしょう。また同修の問題点に気付くことも出来るでしょう。そうすれば、善意を持って正面から指摘することが出来るのです。このようにすることで、衆生を救い済度する道のりにおいても、私たちはよりいっそう善く行うことが出来ると思います。

 もちろん、困難に陥っている同修もいますし、修煉の状態が一時的に良くない同修もいると思います。そういうときは、共によく法を学びましょう。交流を重ねましょう。当人に自信がないときは、自らの長所を見いだすことが出来るようにしてあげましょう。同修が自我の殻を突き破り、一刻も早く窮地から脱するためには、やはり適度の励ましが必要であると思うのです。このように言うのも、同修をただただ思うからで、同修が物事を絶対化したり、極端に走ることのないように、心から気遣ってあげたいからです。

 些細な悟りではありますが、適切でない点があれば、慈悲をもってご指摘をお願いしたく思います。

 2008年10月4日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/3/186974.html