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家庭の中で自分を修め、衆生を救う


文/遼寧省の大法弟子 叶子

 (明慧日本)私は1996年3月に大法の修煉をはじめたので、古い弟子になります。12年の間、職場や、社会、家庭など様々な複雑な環境の中で、特に弾圧が始まった1999年7月20日以降、邪悪な共産党から強いられた重圧と迫害の過程において、魔難と試煉を体験してきました。信念を堅持し、大法を実証し、真相を説明し、衆生を済度するこの道を歩み通してきました。家庭環境の中でも、修煉ができることを悟りました。肝心なのは、家族と自分の関係をどう対処するかでした。

 私は長年、姑と一緒に生活する中で、常に自分を殻に閉じ込め、不自然な態度で接していました。表では、姑に対して非常に謙虚に従っているのですが、内心では相手に弄られるのではないかと警戒しています。私と夫の結婚に、姑はかつて反対していたため、彼女に対し恨みを持ち防備し続け、長年不愉快な感情を抱き続けてきました。そして、彼女にどんなに優しく接しても意味がないと思い、心の中では意にそぐわないと思ってきました。そのため、天を責め、人を嫌い、日々の生活に耐えていたのです。

 師父は、こうお話されています、『悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います』(『精進要旨』「境界」)。師父の法は、私の心の隔たりと問題点を的確に溶かし、心をパッと開かせてくれました。長年、私は常人社会のこの泥沼に身を置き、全身に汚物を付着させていましたが、今は違います。私は一人の大法弟子であり、以前のように常人と同様に振舞っていいのでしょうか? 正法の修煉の中で自分を洗い浄め、真に自分を修煉者とみなし向上してこそ、すべての不正な要素を正すことができ、初めて昇華できるのです。家庭の中で築いた環境は、私(し)自身の私欲が膨張した結果なのです。常人の基点に立てば、すなわち常人になってしまい、修煉は空論になります。

 心を静めて自分を分析して見ました。不平不満の心には闘争心、嫉妬心が充満しているのです。これは長年、家庭関係がギクシャクしていた根源でした。これは後天で形成した常人の観念でもあるのです。ここ数年修煉を続け、向上していますが、まだ根底から変わった訳ではないのです。特に弾圧が始まった「7.20」以降、衆生に真相を説明し済度するためには、この問題は特に顕著となっていました。

 師父は『法輪大法義解』の中で、「一人の学習者として、一人の法輪大法の修煉者として、特に補導員の責務を担っている人は、常人はあなたを一人の個別の人間、一人の普通の煉功者として看做さないのです。人々はあなたを一人の法輪大法の修煉者と看做し、法輪大法のイメージを代表しています。このことはとても重要です」と教示されました。

 師父の法に照らして私は自分を問い正してみました。あなたはこのようにしたのでしょうか? あなたは大法弟子の風貌を家族に現したのでしょうか? 私は家庭を自分の修煉環境の場とみなし、家族は私の済度を待っている衆生とみなし、できるだけ正念を常に保つように自分に言い聞かせたのです。その前提条件としてよく法を勉強することでした。生活の中のトラブルに直面したとき、家族と接する中で、正しく対処できるようになったのです。いかなる面においても内に向かって探し、自己を修めるようにしたのです。心から姑を理解し、いたわり、他人にも善意を持って接するようにしました。徐々に、心が通じるようになり、人情と道理が感じられるようになりました。そして、お互いがどんどん親密になり、付き合いも益々よくなりました。このとき、私の自我は存在しなくなり、家族の至らない点も見えなくなり、自分の執着と不足だけが見えてきたのです。

 ここ数年来、家族は私の行いにより大法に対する純正さ、素晴らしさがわかり私が三つのことを行うのを非常に支持してくれています。特に、姑は大法のお守り札を身に着けるだけでなく、親戚の全員を脱党させました。義理の弟は真相資料もらった時、私に配布させるよういつも取っておいてくれます。私が感じたのは、自我と執着が交差するとき、目の前は障害で紆余曲折になります。理解と寛容を持ち、常に大法に照らして自分を修めるときは『転法輪』の中の「柳暗花明・・・」。になり、広い世界が現れてきます。いま、私の両親、兄弟およびその子供たちは心から大法の不思議さを実感しています。なぜならば、彼らは真に大法の超常さ、無私を体感でき、大法弟子の心身の両面の変化を感じているからです。大法により親戚の身に現れた奇跡を目の当たりにしているからです。いま、彼らは全員脱党しました。そして、自分の美しい未来を選択したのです。

 この過程において、私が感じたことは、家庭は血縁関係のような単純な関係ではなく、人類社会が覆う個々の小さな単元でもあるということです。家族は衆生の一分子であり、同様に私たちの救い済度を待っているのです。一人の修煉者として、自己の一つ一つの言動を大法に照らして判断し、自分の問題点を探し、自分を修め、善意を持って家族に接し、家族を理解すれば、穏やかにゆとりある環境の中で真相も説明できるのです。さらに大法も実証できるのです。また、自己も向上できるのです。しかしそれに反すれば、自分をよく修めることが出来ないばかりでなく、家族の運命をも怖い境地に落とし入れてしまうのです。

 書き始める前、私は長い間躊躇していました。修煉があまりよく出来ていないため、上手く書けないといつも思っていたからです。しかし今回はやはり書くことに決めました。これは自分を正し、徐々に向上して、大法を実証する過程でもあるからです。至らない点がありましたら、同修たちのご指摘をお願いします。

 2008年10月6日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/10/5/187149.html