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観念を打破し、人間から抜け出す

(明慧日本)最近同修の書いた「一つの考え、一つの念について」という文章を読んでまったく同感だと感じました。大法の中で修煉する者として、私たちの一念一念は非常に重要です。人間の念(観念)を動かすのか、神の念(正念)を動かすのかによって次元が分かれ、その結果はまったく違うものになります。

 あなたが神の念を動かした時、あなたは常人を超えた者となり、常人のいかなる理も作用しなくなります。例を挙げましょう。先日、私はさそりに刺され、痛みが指先から上の方まで広がってきました。その日ちょうど「求索」というDVDを見たのですが、かなり啓発されました。私はすぐに、自分は修煉者であり、私の身体は高エネルギー物質で構成されているのだと自覚しました。小さなさそりが何だというのでしょうか? たかが三界内の五行からできたものではないでしょうか? 私をどうする事もできないはずだと腹を決めました。するとこの一念で手の痛みは消え、次の日はまるで何もなかったかのようでした。

 人間の念を動かした時、あなたは常人にほかなりません。三界内の生命であれば、三界内の理の制約を受けることになります。最近、周りの一部の年配同修に身体の調子が思わしくない状態が現れています。心臓病が再発した、けんしょう炎になった、骨増殖症になったという同修がいて、常人の観念の中に陥り、常人の理に縛られ、とても苦しんでいるのです。ここで年配の同修の修煉が良くできていないと言っているわけではありません。学法、煉功、発正念、真相説明など、みな精力的におこなっているにもかかわらず、なぜこのような状況になるのでしょうか?

 私個人の悟りですが、法を正すことが終わりに近づいて、師父の法を正す過程も目覚しい勢いで進んでおり、我々に対する要求もさらに厳しいものになりました。我々が行っている衆生を済度することは神が行うべきことであるのに、どうして頭の中は人間の観念で溢れているのでしょうか? 神の行いを具えようと思えば、必ず神の念がなければなりません。一部の年配の同修は年齢と共に人間の観念が比較的重く、一時的に突破するのは難しく、観念を変えるのは困難だと感じています。これらの同修と法理に沿って切磋し、共に精進し、旧勢力が按排した我々の一念を否定したいと思います。そして観念を打破して人間から抜け出し、師父が期待しておられる正真正銘の覚者になるのです。

 個人の次元で悟ったものにつき、不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いします。

 2008年10月9日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/10/9/187350.html