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法を学ぶことは最も重要


文/遼寧の大法弟子

(明慧日本)時間は瞬く間に過ぎ、私はすでに12年前の小さい弟子から今の古い弟子になりました。学生として、日常生活の中で、私は大人達がぶつかったとても鋭い難関に遭ったことはありませんでした。私がよく修めたのかどうかは、主に学習成績に現れました。最も肝心なのは、やはり法を学ぶことです。

 初めて法を得た時、私はまだ小学生でした。その時、私の学習成績は悪くなく、成績について気がかりはありませんでした。その後、中学校に入ってから、クラス担任とすべての先生がほとんど毎日圧力を加え、入学試験の形勢はとても厳しいと言われました。月日が経つうちに、私もだんだんと常人の影響を受けて、学習成績に対する執着は同じくますます明らかになりました。クラス担任は、私のその時の成績で、高校に合格するのは難しいといつも言いました。そこで、毎月の定期試験あるいはその他の試験の成績が出た後、もし成績が理想的でなければ、私は落ち込んでいました。時にはひっきりなしに泣いたりして、法を学ぶ気分ではなくなりました。いつも成績のことを気にかけていました。それから、家族全員(みな大法弟子)が私のその時の状態について一度交流してくれました。みんなは私があまりに成績に執着しすぎている、煉功者は求めることなく、執着しすぎるとかえって反対の作用になり、全力を尽くすことさえすれば成績は自然に任せ、多くの法を学ぶように言いました。

 それから、私は心を静めてよく考えてみました。私はどうしてこんなに点数に執着するようになったのですか? 煉功者は自然に任せると言うのではありませんか?みんなの言ったことはすべて正しいです! その後、学習過程の中で、私は自分で最大の努力を尽くしました。ただ過程を重んじ、結果を重んじなくなりました。だんだんと成績に対する執着をゆっくりと放下することができました。最後は、悪くない成績で高校に受かりました。初めのことをふりかえってみると、修煉の道は師父が按配してくださったのだと分かりました。1人の常人は、どんな身分であっても、どんな話をしたとしても、みな作用が働きません。私は意外にも常人の論断に動かされて、心の中は不安で落ち着かなくなり、甚だしきに至っては学法を引き留められて、本当にとても恥ずかしく思いました。

 高校に入った後、成績の圧力はもっと大きくなりました。しかし、私は依然として心理状態をただしく保持することができました。そのため、学習面であまりに大きな問題は存在しませんでした。しかし、新しい問題が現れました。新しい環境の中で、新しい友達と知り合いになり、友達と付き合う時、どうしても種々の人に出会いました。その時、私の心性が高く要求される時でした。高校3年間、私は同じテーブルに座る同級生との接触が最も多く、彼女との難関が最も多かったのです。彼女はとても感情的になる人で、毎日、私達はいつも些細な摩擦がありました。最初は、私はひたすら我慢しました、彼女と言い争うべきではなく、小さな事でさえ我慢できなければ、煉功者といえますか?しかし時間が長くなると、彼女は毎日このようにして、すでに私の学習を邪魔してしまい、私は彼女を放任してはいけない、これは邪悪の妨害だと思いました。そこで、私は彼女に反駁し始めました。しかし、その背後の邪悪を取り除くことを思い付かなかったので、多くのトラブルをもたらしました。最後に先生を探して座席の調整を求めるようになりました。その後とても長い間、私はずっとこれはすべて彼女が間違っていると思いました。その時、私は本当に常人と同じでした。

 大学入試が終わる休暇の間、私は絶えず法を学ぶ過程の中で、私は始めて悟りましたが、実はこれらの難は、みな私の正念が足りないからもたらされたのです。このような事にぶつかる時、私はまず修煉者の基準で自分に要求すべきです。さらに正念をもってその背後の邪悪を取り除き、このようにして、初めて修煉者の成すべきことです。これを認識してから、その後、類似する事にぶつかった時、この方式によって対処することができました。ただ、以前私がもたらした損失は、すでに挽回することができなくなりました。この事の最も主要な原因も探し当てました。これは、法を深く学んでいなかったからです。

 今、修煉者として、私はすでにずいぶん成熟したと感じました。大学の中で名利に対する追求はすでに一種の気風になりました。しかし、私はずっと自分をしっかりとらえることができて、名利を気にしなくなりました。大学の中で、法を学ぶ時間は多くなりました。以前より環境は複雑になりましたが、真相を伝える効果が良くなりました。これはすべて法を学ぶことが多くなって、深く入り込んだためです。自分が真相を伝えることに障害となる心が減らされました。だから、学生として、学習がどんなに緊張しているのかに関わらず、みな法を学ぶことを忘れてはいけません。法をよく学んでから、はじめて真の良い弟子になり、「良い学生」になることができます。

 次元は限られているため、もし適当ではない所があれば、同修のご指摘をお願いします。

 2008年10月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/6/187184.html