日本明慧
■印刷版   

「焦る心」を放棄して、着実に法を学ぶ


文/海外の大法弟子

(明慧日本)私は、常に法を学ぶことはとても重要なことだと考えています。普段、言葉の上でも、心の中でも、法を学ぶことは修煉を根本から確実なものとすることも、私にはよく分かっています。しかし、私には実際の修煉で法を学ぶことが、なかなか思うようにはいきませんでした。法を学ぶことを重視しているとは思っていても、私には向上が思ったよりも遅いと感じていたのです。最近になって、ようやくその原因が分かりました。自らしっかりと法を学んでいないこと、さらには法を徹底的に学んでいないことが原因だったのです!

 一、法を学んでいるとき、私は任務として法を学び、いつも早く大法の本を読み終えたいと思っていました。これでは心が静かにならないはずです。

 二、私は三日坊主でした。ある日は二、三講学び、次の日は数ページしか学んでいなかったのです。結局、平均すると私は毎日一講も読み終えてはいませんでした。まして心を静めて法を学ぶことなど、これでは出来るわけもありません。

 これは「功を得ることを焦る」という、目先の利を求める心の表れであると悟りました。私はいっときも早く功を得ようと焦る気持ちを、より早く、より高く心性を修めることと、はき違えていたのです。かつて私は、ほかの同修にこのように言ったことがあります。「毎日一講読むくらいでは少なすぎると思いますよ」と……。私は法を学ぶことを重視しており、毎回大法の本を持つときには、いつも二、三講分は学びたいものだと思っていました。実のところ、私は「目先の利」を求める心を抱いていたのです。これは純粋な心と言えるのでしょうか? いいえ、大きくかけ離れています。私はこのような状態で、法をよく学べるとでも言えるのでしょうか? さらに言えば、数ページも法を学んでいると、読む気が失せてしまうこともよくありました。いつも時間が流れるのが遅いと感じ、大法の本を手から放した後になって、「もっと読めばよかったのに……」と思っていたのです。しかし、パソコンで常人のウェブを閲覧するときには、多くの時間を浪費していました。正しいことをすると頭が痛くなるので、正直、私は気持ちが萎(な)えていたのです。

 このことが分かってから気付いたことですが、自分が分かったと思っていることは、実は自らが修煉し、向上して得たものであって、師父が悟らせてくださったことなのだ、ということです。私は読みすぎず、急がず、毎日一講を読むと心に決めました。実際、この二週間で、私は無心になって法を読むことで、改めて修煉の素晴らしさを感じることが出来たのです。

 私は高い目標を決めていないので、一講を学ぶことしか決めてはいませんが、法を学ぶときはそれほど焦らないことにしました。その代わり、私は着実に法を学び、必ず一講は学ぼうと心に決めたのです。私は毎日一講なら学ぶことが出来ますし、学び終えていなければ寝ないことにしました。この二週間での自己改善の経過を自分なりに見ていきますと、決して自ら法を学ぶことが少なくなったわけではありません。逆に同じ時間を使っていても、法を学ぶことが、より多くなったと思うのです。

 修煉上の表れとしては、矛盾に遭遇したとき、私は「内に向かって自分の問題点を探す」ことが出来るようになったと思います。そして原因である問題点のある心を探し当て、その心を捨て去ることが出来たと思うのです。法を実証する過程で、実際、私はより多くのことを負担出来るようになったと考えています。生活と仕事上のこと、社会環境の中でのこと、法を実証することなど、より理性的になり、知恵も増して来たと思うのです。また、自分に自信を持てるようになったとも感じています。発正念をするときは心を静かに保つことが出来るようになりましたし、自らの悪しき想念を根絶するよう、懸命に念じるようにもなりました。

 以上は、私の最近の修煉の体験です。私がこの文章を書くことで、同修に対してプラスになることを願っています。

 不足な点はご指摘のほど、何卒宜しくお願いいたします。

 2008年10月17日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/13/187583.html