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私達は旧勢力を超越した大法の徒である


文/葫芦島の大法弟子

(明慧日本)2006年の年末、私達の地区では警官による大捜査があり、新しく専任された派出所の所長が資料センターを破壊しようとしているという話を聞きました。最初、私は心が揺れ動きましたが、その後、私の家の何も触られてはならない、何も移さない、誰が破壊するのかを見てやる!という強い意志を持つようになりました。同日の夜、発正念をした後にはっきりとした夢を見ました。夢の中で、二匹の緑の大蛇が東(派出所)の方からやって来て、私達が発正念をしているのを見て、急に自分の洞窟に戻っていく夢を見ました。翌日になってから、警官らは皆、賭博をする人たちを逮捕しに行き、大法弟子に対して何もしていないということが分かりました。その時はまだ深く考えていませんでしたが、後になって、私達が心を放下でき、それらの按配にしたがわなかったため、邪悪は何も方法を取ることはできず、常人の中では法輪功修煉者を逮捕しようとしたことが、賭博をする人達を逮捕することになったのです。

 旧勢力のすべてを否定することは、すなわちそれらの按配したすべてに動かされないことであり、それらは常人の中でいろいろなことを按配しました。例えば、中共によるオリンピック、大規模な逮捕などです。私達大法弟子が、もしこれらの表面的な現象にしたがって動くと、例えば、それらがオリンピックを開かないように、または大規模な逮捕に対して発正念をすることは、表面からして迫害に抵抗しているように見えるかもしれず、邪悪を取り除いているのかもしれません。しかし、やはり実質的にそれらの按配したことにしたがってやっているのであって、その按配したことに対応するための発正念をしているのであり、根本的にまだ邪悪の按配に動じられないということができていません。オリンピックを開催するにせよ、大規模に逮捕するにせよ、旧勢力の按配したこれらのことがもしなければ、私達は三つのことをしっかり行うだけです。これらのことが起きても、私達はそれに動じられず、いつものように三つのことをしっかりと行なうだけです。旧勢力が按配したすべては、私達大法弟子が威徳を樹立するためにあり、私達が彼らを集中的に取り除く機会を与えてくれているのであり、それらがただ自滅し、滅亡が早まるだけです。私達がこのように行なえば、それらを否定し、それらを排除することになるのではありませんか。

 法を正す時期の大法弟子として、個人の修煉の枠から抜け出し、法を正す視点から、人を救う基点から物事を見るべきです。師父は、『洪吟(二)』の中で、「」とおっしゃっていました。それらのいかなる変化にしても、常人社会のいかなる現象を作り出すにせよ、または同修の間にいかなる矛盾を作り出すにせよ、それらに執着するべきではなく、私達が行なうべきことは、それらに動じられることなく、ただひたすら自分のしようとする事をしっかりと行なうことであり、何ものにも妨害されてはなりません。何かのためにするのではなく、ただ大法弟子がそのようにすべきだということだけです。まさに師父が法を正すことを助け、衆生を救い済度する新しい宇宙の覚者の風貌をもってこの世間において行なうべきであって、どうしてそれらの低い次元の生命に動じられ、それらの按配にしたがって動かなければならないのでしょうか。

 今になって私は、大法弟子たちが新しい宇宙の正法の覚者になるには、ただひたすら個人の修煉にとどまっていてはいけないと思います。なぜならば、どんなに修めようと、どんなに内に向けて探そうと、自分自身という私(し)の枠を抜け出していません。病業のため魔難に苦しめられている同修は、ある意味では、個人の修煉の枠を出ていないから、内に向けて自分の執着を探すときでも、強烈に自分自身の問題を解決しようという考えを持っているから、すなわち自分自身のために探しているのであって、それでは難関を乗り越えることができず、内に向けて探すこと自体は厳格に言うと間違っていませんが、法を正す時期の大法弟子として、内に向けて探すときは、これほど浅く、これほど自分自身のためになってはなりません。私達が内に向けて探すのは、法に自動的に同化する行為であり、自動的に法の中で自分の変異したすべてを正す、返本帰心する行為であって、決して何かの状態または問題を解決するためではありません。私達が正念を発するのは、法の中で正神が大法を守るために、師父によって与えられた佛法神通をもって邪悪を取り除いているのであって、それは宇宙を浄化するためであり、迫害を減らし、大法を守り、衆生を救い済度するためであって、決して個人が何かを守るため、誰かを守るためにしていることではありません。私達がはっきりと真相を伝え、衆生を救い済度するのは、大法の慈悲の体現であり、大法の中で真に修める大法弟子が淘汰されることを苦しんでいる衆生に対して、慈悲の心が生じるのであって、さらに大法の中で修めた知恵をもって、正念をもって衆生を救わなければならないのであり、決して個人の円満成就や、任務を完成し、互いの比較のためにしているのではありません。今日になって、私達が行なっていることが偉大であるゆえんは、私達が師父の無私無我の大法の徒であり、師父の要求されることを円容しているからです。

 私達大法の中で修煉する命があらゆることを見る視点はすべて、師父が円容しようとしていることに基づかなければなりません。人を救う基点に立たなければなりません。決して個人の修煉の基点に立って見るべきではありません。私達がこのように行なえば、自分自身を旧勢力の上に置くことになり、旧勢力の按配したすべての外に置くことになり、私達の基点が正しくなります。それで、正しい方向になります。旧勢力は、私(し)のある生命しか動かされません。しかし、真に無私無我の大法弟子の出発点は正法であって、衆生を救うためであるがゆえに、法を実証することも常人からしていかに危険を思われていることも、私達は他の命を超越しているため、旧勢力は私達にまで届きません。であれば、どうして旧勢力に迫害されるのでしょうか。私(し)や自我のための念が私達を妨害する要素であり、重大な選択の前で、大法を最優先しなければなりません。師父の要求されること、衆生を救い済度することを円容しなければなりません。それこそが師父の按配された道であって、惑わされることもなく、新しい宇宙の大覚者となれるのです。もし私心が強ければ分からなくなり、旧勢力の作り出した迷いの中で、真の自分自身を失い、師父の私達に対する要求を満たすことができなくなります。

 ゆえに、私達のすることは、ただ表面的にどれぐらいしたかではなく、まず基点を正しくしなければなりません。私達の目標は無私無我であり、他人を先に自分を後にするという正しい法の悟りです。であるがゆえに、私達は初めて、法を正す時期の大法弟子という称号にふさわしいのです。

 以上、個人の見解にすぎないので、法をもって師とし、精進しましょう。間違いがあればご指摘お願いします。

 2008年10月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/8/187240.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/10/12/101438.html