日本明慧
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修煉は基点を重視しなければならない


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)長い間、私は静功をするとき、いつも意識がはっきりしておらず、いろいろな雑念が生じていました。午前、学法をする時に眠くなり、発正念を眠くなりました。静功の状態を良くするため、本来であれば朝4時の静功を、正午の発正念の時間にしました。しかし、根本的な改善はありませんでした。特に、午前8〜9時に学法するとき、常に睡魔と闘っていました。時には、静功をするときに常に脳の中で寝ようとしている物質が何重もあるように感じていました。どう排除しても排除しきれません。発正念をしても排除しきれません。どうすれば、この睡魔から抜け出せるか、力不足を感じていました。さらに、色欲の業力も強くなり、とっくに生活の中でこのような行為をなくしているので、このようなものはないと思っていましたが、これらの汚いものがいつになっても取り除けません。私の心は非常に焦っています。法を正す時期が最後の最後になりましたが、私はまだこのような状態に陥って精進できていません。今日、大法弟子の書いた修煉体験談を読んで、やっと私も考えがはっきりしてきました。

 同修の修煉体験談を読んで、私は自分の考えを探してみることにしました。根本的な原因とは、私は心の中から本当に、これらのものを放下しようと思っていなかったと感じました。これらの問題を修煉の関としてみることができず、いつも内に向けて探すにしても表面的であり、正念が足りません。大法をもって自分を強め、さらに全身全霊でこれらの妨害を排除しようとしませんでした。神のような正念もありませんでした。これほど大きな漏れをなぜ重視できなかったのでしょうか。これは、自分の命に対して無責任ではありませんか。私欲が強くなり、人間の念が自分自身をコントロールし、何もしたくなくなり、業を滅するのも嫌になり、安逸を求めるようになり、三つのことをしているがあまり精進せず、世人を救い済度するという使命感もあまり感じていません。師父が宇宙の衆生のためすべてを尽くしたことを考えてみれば、私は自分自身の修煉に対してもいまだにこれほどなおざりにしているのであれば、私はどういう生命なのでしょうか。私のような生命がどうやって将来の宇宙の衆生の責任を持てるというのでしょうか。

 法を得た当初に見たある夢を思い出しました。私は夢の中で、非常にきれいな所にいました。透明な水、真っ白な白鳥、緑の草…。しかし私は、ある深い穴の中に落ちて、ずっと落ちてこの地上に落ちて来ました。私は地上に落ちて初めて口にした言葉は、「ここはなんと汚いのでしょう」という言葉です。ちょうど私は、自分の真上におられる師父が説法されているのに気づきました。私も煉功したい!と叫んだ直後、夢から覚めました。13年間経った今でも記憶に新しいのです。

 私は決してこの汚い所にとどまってはなりません。私の生命の本源が私を呼んでいます。私はこの万古なる機縁を大切にし、早く心の内に向けて探し、大法の基点に立って、衆生を救い済度する基点に立って、初めてすべての良くないものを取り除くことができ、すべての妨害の要素を解体することができます。今、私は非常にはっきりとしている考えがあります。強い正念を発してこれらの良くないものを取り除くほか、主意識を強くし、法をたくさん学び、法を暗記し、大法をもって自分の考えのすべてを正さなければなりません。「忍び難きは忍びうる」、ここまで書いて、すでに私は大きな変化を感じました。この関を必ず乗り越えると決心しました。

 2008年10月18日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/16/187816.html