人心を放下し、学会に協力する 文/日本の大法弟子
(明慧日本)去年の年末、師父が経文『フランス法会へ』を発表されたとき、私たちの地域の学会と学習者の間で、非常に大きな矛盾が生じていた。私は矛盾の当事者として、師父の経文を見て、学会の統一の按配に協力する必要があると分かっていたが、自分は間違っていないし、別の所で道理を欠いていたと思っていた。そして、自分が正しいと思っている状況下で、相手に頭を下げることを求め、このような心を捨てるのは難しかった。
この問題は、多くの協調人と大法の事をやっている同修に影響を及ぼした。修煉において長年、同修に対する観念と人心が積み重なったことで、そばで見ていた同修も各種の観念を抱いていた。また、動揺した心が無意識にこの問題の中に入ってきた。全体の協調における漏れは、私たちの2008年神韻チケット販売の状況に多きく影響を及ぼした。
その後、ずっと内へ向かって自分のどこが不足しているのかを探し、この問題の中でとてもひどく誤解されていたため、悔しく思っていた。2008年ニューヨーク法会の時、師父に会い、師父の説法を聞いて、心がぱっと開けるように解消した。これは最も基本的な法理であり、しかし、自分は常人の一面で誰が正しいか間違っているかを判断し、悔しくて不満に思っていた。以前の法会において、ある同修が師父に同じような質問をした。しかし、師父はどんな具体的な問題でも誰が正しいか間違っているか判断されず、いつも法理を話され、修煉者がどのような心で問題に対処すべきかを話される。
師父の『オーストリア学習者への説法』のDVDを何度も見て、修煉者の間の矛盾は自分を堅守し、人心をもって同修に接することから生じたと悟った。一人一人の同修の法理に対する理解は異なり、物事を行うときの判断も異なる。皆、自分が正しい、他人の悟り方に問題があると認識する。自分が悟った法理で他人を要求し、観念と人心を加えると、邪悪に与える機会を拡大させてしまう。相手を見れば見るほど問題が多くなり、論争して譲らなくなってしまう。
論争して譲らない双方が、もし相手の側に立って考え、一歩譲ることができれば、これが修煉者の理想の状態である。しかし、修煉の中で私たちはまだ人心を持っているため、最も良い状態を保ち続けることができない。双方が保てなければ全体に影響してしまう。このとき、一方が譲る必要がある。学会は協調する側であるので、同修が譲歩するのが一般である。本心から願って譲歩していないため、学会への不満が溜まっていた。また、学会は同修に問題があると感じていた。時間が経つにつれて不満が積み重なった結果、同修と学会の間に異なる見解が形成された。実際は、人心を放棄しなかったために生じたのである。
多くの時、私たちは同修と矛盾がある時、私がこのように行うことが法に対して責任を持つことだと話すが、実は潜在的に自分は正しい、相手が間違っている、絶対に相手を変えるという心があるから言ったのである。これらの執着心を本当に放下できた時、その結果は自分が常人の観念と執着を持っていたときに想像したこととは違っていた。師父は全体を見守っておられる。もし一人ひとりが自我を放下し、心を着実に三つのことを良く行うことに置き、正しいか間違いかを判断しなければ、この地域の全体の形式が偏るわけがない。今日まで修煉し、同修の法理に対する認識が異なり、もし自分が正しいと自分を堅守するなら、全体は四分五裂の状態となるだろう。論争が生じたら、必ず自我を放下し、大きな問題が起きたら学会の按配を聞いて協調すべきである。
この問題を通じて分かったことは、同修の自分に対する誤解をあまり重く見ないこと、ひいては締め出すことなく、同修に対して寛容に接するべきである。修煉は自分を立証するのではなく、具体的な事の中で他人に自分が正しいと認めさせるために争ってはならない。どのぐらいの事ができたか、あるいはどのぐらいの功績を上げたかを見るのではなく、自分がどのぐらいの人心を放下しているのかを見るべきである。最近、師父の『精進要旨』の「境界」の一文、「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います。 善なる人は慈悲心が常にあって、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。 覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています。」を再び読んだ時、突然この詩は人が修煉する過程を含んでいると悟った。常人の逆の理から歩み出し、正しい法理を用いて修煉における全てに対処する。苦をもって楽とするのであり、最後には執着心を無くすに至るまで修煉するのである。
この心性の関門を乗り越える時、一歩一歩、師父が法理を用いて私を指導してくださった。師父の最初の頃の説法を学び直したとき、同様の法理に気づき、師父は以前からずっと繰り返し言って来られたのである。『オーストリア学習者への説法』のDVDの中で、師父は将来またこの法について話されるとおっしゃった。私の心は表現できないほど師父の慈悲を深く感じ、できの悪い弟子に何度も繰り返し話されていると感じた。努力して精進することでしか、師父の慈悲なる心に申し訳が立たない。
個人の悟りであり、足りない所は指摘していただきたい。
2008年10月19日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/16/187812.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
|
|