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河北省邯鄲市:法輪功修煉者・李石頭さん一家が受けた迫害

(明慧日本)河北省邯鄲市の法輪功修煉者・李石頭さんには幸せな家庭があった。しかし、法輪功に対する中国共産党の残酷な迫害により、家族はばらばらになり、母親は迫害されて亡くなり、父親は何回も強制連行され、監禁された。オリンピック開催期間中、李さんと父親は再び強制連行され、不法に労働教養を科された。

 1999年7月20日、法輪功に対する天地を覆い隠すかのような弾圧が始まった。李さんは依然として公園に行って煉功し、自らの行動で大法の無実を証明し、人権と信仰の自由に対する侵害に抗議したが、不法に強制連行され、1カ月間拘留された。

 2000年10月23日、李さんは同修に師父の経文を送った際に、再び強制連行され、天津双口労働教養所で不法な1年半の労働教養処分となった。労働教養期間中、李さんは何回も電撃され、めった打ちされ、棒や拳、足で殴られた。皮膚や筋肉は焼け焦げ、全身は殴られて腫れ、黒紫に変色した。またみなの前で衣服を全部脱がされるなどの侮辱も受け、また長時間睡眠を与えられず、強制的に転向を強いられた。

 長期にわたる極めて悪い生活条件の下で、李さんはひどい疥癬を患い、全身の皮膚が潰瘍状態となり、下着を着ることができず、足には血膿が流れた。また足は腫れて靴が履けなくなり、両手も潰瘍で、血膿が滴っていた。身体は痩せこけ、足を引きずりながら、腰を曲げて歩くしかなかった。

 その後、李さんは天津薊県魚山労働教養所一大隊に送られた。移って間もなく、指導員・李占は李さんに理不尽な体罰を加えた。李さんが体罰を拒否すると、李占は拳で殴ったり、足で蹴ったりして、眼鏡が壊された。また李占と周海英(李さんの監禁されている監房の責任者)に電撃され、転向を強要された。魚山教養所では、繰り返し非人道的な虐待を受け続けた。強制的に体力的に無理な過酷な仕事を奴隷のようにさせられるなど、一々書きつくせない。

 李さんは魚山労働教養所で1年あまり不法に監禁され、2004年6月、天津市建新労働教養所に送られ、引き続き迫害された。2004年12月25日は李さんの刑期満了の日であり、釈放日だった。満期日の一週間あまり前、天津公安四処、勤務先の河北工業大学保衛処、及び学校の幹部ら20数人が労働教養所を訪れ、李さんに対していわゆる考察を行った。

  2001年8月、李さんが不法に双口労働教養所に監禁されていたとき、母親・劉煥青さんは法輪大法に対する信念を放棄しなかったため、邯鄲公安や留置場のメンバーにより迫害されて亡くなった。年はまだ58歳だった。劉煥青さんはかつて3回、復興区公安支局により第二留置場に監禁されたことがある。最初は1カ月間、2回目は5カ月間、最後は2000年10月6日で、自宅にいた李さんの両親は強制連行されて、邯鄲市第二留置場に送られ、10カ月間監禁された。その間、劉煥青さんは法輪大法を堅く信じていたため、重い足枷と手錠を嵌められていた。所長の趙、副所長の崔樹敏は劉さんを殴り、スタンガンで全身を電撃して、心身ともに傷つけた。体重は70キロから40キロ以下に落ち、気息奄々の状態となったとき、邪悪な輩らはやっと家族に迎えに来るよう許可した。しかし、劉さんの体はすでに回復できなくなり、釈放されて1カ月にならない内にこの世を去った。亡くなるまで、昼夜懐かしんでいた息子にも夫にも会えなかった。

 李さんの妻は数々の深刻な打撃と異変に耐えられず、李さんと離婚した。李さんが最初に不法に労働教養された当時は、ちょうど新婚時代だった。妻は同じく河北工業大学を卒業した人だったが、邪悪な迫害により幸せだったこの家庭は離ればなれにされてしまった。

 1999年に法輪功に対する迫害が始まった当初、学校は早くも李さんの身分証明証を没収し、そのため、李さんは仕事がなくなっても、仕事を探すこともできなくなった。身分証明証はいまだに学校の保衛処にある。李さんは父親のわずかな年金で生活するしかなかった。しかし、邯鄲市公安支局と両親が所在する現地の派出所の警官は、毎回敏感日になるたびに、生活を掻き乱しにやって来た。2007年10月17日の朝、中国共産党の「第17回人民代表大会」が開催される前、邯鄲市復興区勝利橋派出所の警官は、また自宅に押し入り、李さんを強制連行した。当日の午後6時、李さんは邯鄲市第二留置場に連行されて行った。現地の同修の救援の下で、11月17日に釈放された。

 オリンピック開催期間中、中国共産党は再び罪のない法輪功修煉者に対して残酷な弾圧を実施した。2008年7月24日の朝、李さんが同修のところに遊びに行ったとき、すでにそこで待ち伏せいていた勝利橋派出所の警官に再び強制連行された。その後、石家荘労働教養所五大隊に送られ、2年間の労働教養処分となった。家族に通知がなかったため、家族は方々を尋ねて、やっと行方が分かった。

 李さんの父親・李剛林さんは7月23日以降、ずっと息子に会えないため、同修の家に探しに行ったところ、そこで待ち伏せしていた勝利橋派出所の警官に強制連行され、邯鄲労働教養所に送られて、不法に2年間の労働教養を科された。

 李剛林さんは邯鄲市医薬会社の従業員で、すでに70歳近い。1999年、法輪功に対する邪悪な迫害が始まって以来、剛林さんは修煉を放棄せず、中国共産党に繰り返し何回も不法に刑期を延長して拘禁された。2000年、剛林さんは勝利橋派出所に強制連行され、邯鄲市第二留置所に監禁された。5カ月間監禁されてからやっと釈放された。それから間もなくして、2000年10月6日、再び勝利橋派出所に強制連行されて、10カ月間監禁された。2001年9月、妻が迫害されて亡くなり、警官はやっと剛林さんに保証人を立てて審問を待つ手続きをした。妻を亡くした苦痛の中、剛林さんの身体の状態は悪く、しかし、警官は絶えず生活を侵害していた。

 2002年9月25日、勝利橋派出所の警官は再び剛林さんの自宅に押し入り、剛林さんを強制連行して、直接邯鄲市労働教養所に送った。2004年の初め、釈放された。2004年9月3日の午後、再び強制連行され、邯鄲洗脳班に送られた。

 2008年7月23日の夜6時半、邯鄲市復興区国保大隊は勝利橋派出所の警官と結託し、2台のパトカーで、8、9人が剛林さんの家にやって来て、再び生活を掻き乱した。家族がドアを開けないでいると、数人の警官と1台のパトカーがずっと住んでいるビルの入り口で監視し続けた。24日の夜7時、何人かの警官がまた邪魔しに来た。ドアをノックしても開けないでいると、勝手にドアを壊し、家に入って捜索した。家を出てからも依然として、ビルの入口で監視し続けた。

 (注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)

 2008年10月21日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/8/187312.html