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孫平華さんが岳陽国保の警官に迫害された経緯(写真)

(明慧日本)孫平華さん(36歳男性)は、湖南省岳陽市窒素肥料工場の機械メンテナンスの従業員。2008年3月に国保大隊の警官に連行され、拷問され傷を負った。医者の診断によると、孫さんの左腕のひじ関節以下は感覚がなく、外部からの力で強力に引き延ばされたため、半年以内にもし回復しないならば、手足を切断をしなければならないという。警官は8月12日、孫さんを長沙新開舗労働教養所に連行した。

2008年10月3日、孫さんの家で撮影(体重57キロ)

 以下は、孫さんが証言した、岳陽国保の警官に迫害された経緯である。

 2008年3月19日昼ごろ、岳陽市岳陽楼区国保大隊の警官は、岳陽市洞ダンホテルの1107号室で私に自白を強いて拷問を行ったため、私の左手に重い障害が残った。その時の現場の状況は次の通りである。

 2008年3月18日午前8時半ごろ、私は窒素肥料工場の仕事場で同僚の葉磊雄さん、劉三桂さんと一緒に、生産設備の検査と修理をしていた。岳陽楼区国保大隊警官の唐建明、劉小平と金鶚山派出所警官の王偉、魯静などの6、7人は、何の証明書も提示しないまま、私を職場から強制連行した。私と同僚の再三の要求のもとで、王偉は身分証明証を提示したが、途中で突然、私の脳を後ろから殴った。

 警官らは私を金鶚山派出所に連れて行き、両手を後ろに回して手錠をはめた。トイレに行くことも許されず、私が何度も要求して1時間後、やっとトイレに行くことが許された。金鶚山派出所の唐建明は何度も私に誘導尋問をして、私に無実な事を言わせるつもりだった。午後2時ごろ、また私を洞ダンホテルの1107号室に連れて行き、夜は眠ることを許さず、体罰を加えた。

 3月19日午後2時ごろ、唐建明の示唆のもとで、劉小平、金鶚山派出所の謝維、魯静、陳は私に自白を強いて拷問を行った。5人は私をベッドに倒し、私の左手を左肩から後ろにして、右手と手錠をはめた(警官はこれを「剣を背負う」と言う)。私が叫んだので、唐建明はシーツで私の口を塞ぎ、市公安局の人が耳にすることを恐れていると言った(市公安局の職員が隣の部屋で事件を調査していた)。警官らはまた、私を強行に引っ張ってひざまずかせた。陳は私の後ろから右足で私の背中を踏み、右手を力強く押さえて手錠を引き延ばし、左足で私のすねを踏んだ。魯静は後ろから何度も突然私を殴り、私の髪の毛を引っ張った。金鶚山派出所の政治工作員の謝維は、何度も足で私の太ももを蹴り、両足を広げて地面にひざまずかせた。その時、私は苦しめられて汗がだらだら流れ、痛みを我慢することができなくなった。残虐な拷問は1時間余り続いた。その時、私の左手は感覚が全くなく、体も動かすことができなかったが、唐建明は全く気にしなかった。途中で私は何度も意識がぼんやりして椅子に倒れ、座る力もなかった。

 3月20日午後5時ごろ、謝維、魯静、陳は私を市の留置場に連行し、当番の公安警官・胡冬望は私の体の状態を尋ね、私は左手の傷を受けた実情を訴えた。胡冬望は監獄の医者・盧礼奎を呼んできて私を検査させ、受け入れ条件に合わないと判断した。謝維、魯静、陳の3人は機会に乗じて抜け出した。このために、留置場の所長・易小平は岳陽楼区国保大隊と何度も交渉した。

 3月末から4月初めごろ、蒋超、唐建明、付偉はやっと私を連れ岳陽市第一人民病院で検査したが、検査の結果を私に教えず、何の薬をもなく、慌ただしく私を留置場に送った。唐建明は当番の毛警官に問題は何もないと言い、毛警官はだまされて署名し、私を引き取った。

 留置場で、私は何度も係長の張元華、所長に易小平、政治工作員の謝更生に、岳陽楼区国保大隊が私を連れて病院で診察を受けさせるよう要求した。しかし、国保大隊の人が来ないという返事だった。留置場の医者・盧礼奎は、「正紅花油」と鎮痛剤を私に服用させた。体が弱いため、私はいつも頭がぼうっとし、何度も留置場の人が私を支えた。6月7日夕方、私はトイレに行った時、突然コンクリートの地面に倒れ、頭の右側と手から出血した。

 6月24日、留置場の警官・胡冬望、医者・盧礼奎は私を連れて岳陽市第一人民病院で検査したが、病院の医者は私の病状が重く、できるだけ早く上海で手術を受けるようにと言った。7月22日、岳陽市国保大隊の責任者・キ光儀ら3人が留置場に来たので、私はまた手の治療を要求したが、キ光儀は返事をしなかった。

 8月12日午前、岳陽楼区政治法律委員会の副書記・易偉琪、蒋超、付偉は私を湖南省新開舖労働教養所に連行した。労働教養所の当番医師・王静明(女性)と警官の陳は、明確に彼らに、私の病状が労働教養所の条件に合わないので引き取らないと言った。易偉琪、蒋超、付偉の3人は、労働教養所の指導員を探すことを理由に、機会に乗じて抜け出した。

 家族の度重なる要求によって、8月27日、新開舖労働教養所は私に病気治療のための一時出所手続きを採った。当日、工場の保衛科・陳世雄さん、黄金竜さん、機械メンテナンスの副主任・竜毅強さん、母親が私を迎えに来た。

 岳陽市第一人民病院、長沙市中心病院、長沙第三病院の診断によると、私の左手は神経が傷つけられ、すぐに治療しなければないという。今は肘から指まで感覚がなく、動かすこともできない。左手は深刻な萎縮が現れ、血液循環に障害がある。左肩の骨は窪み、左手の長さが右手より少し長くなっている。このため、自分で身の回りのこともできない状況である。

 2008年3月18日以前、私の体重は86キロであり、2008年9月27日に労働教養所から出た時は57キロしかなかった。

 (注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)

 2008年10月22日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/8/187332.html