結果は是非を判断する基準ではない
(明慧日本)最近、私は自分の修煉上にある落とし穴を一つ自覚しました。つまり、 いつも表面的な結果で物事の是非を判断し、評価してしまうことです。かつてこのような弱点をずっと「法輪大法のすばらしさを実証する」ことで覆い隠していました。よく考えてみると、次のいくつかの要因が招いたのではないかと思います。
一、法を学ぶのが浅い
師父は『轉法輪』の中で、「真・善・忍は人の善し悪しを判断する唯一の基準です。」と教えられました。1人の人間として、真・善・忍の特性に順応して初めて良い人とされ、その特性から背離する人は正真正銘の悪い人なのです。職場や社会の中で、あなたが悪いと言われても、必ずしも本当に悪い人とは言えず、逆に良い人と言われても、本当に良い人とは限りません。1人の修煉者として、この宇宙の特性に同化することこそ道を得たもので、理屈は簡単なことです。
師父の説かれたこの法理の中から私が悟ったのは、人の善し悪しを判断する唯一の基準は宇宙の特性で、決して常人の中の表面的な結果ではありません。もしかして、あなたがしたことは宇宙の大法に合っているかもしれません。しかし道徳が滑り落ちた昨今、人々はそれを理解することができず、支持しないだけでなく、甚だしきにいたってはあなたが悪いと言うかもしれません。その他に、前世の業力や因縁関係、および旧勢力等のさまざまな要素が影響を及ぼすため、大法を修煉したからと言って、何もかも順調になることはありません。
旧勢力もあなたが法を実証したことにより、すべて道を譲ってくれるのではなく、真相を伝えて衆生を済度してもすべて円満し、成功するとは限りません。事実、師父が見ておられるのは私たちの心の現れで、心性の向上こそ私たち修煉者の目標です。もしも何か良い結果が出て来なかったとき、それまでしたことのすべてを否定するならば、師父を信じ法を信じると言えるのでしょうか。苦しみと直面することで、心性の試練が初めて成り立つのではないかと思います。
二、執着を修めることと迫害を否定することの混同
私たちは旧勢力の迫害を承認しないことは、常人の中で「得」だけを選び、「失」を避けるのではなく、「失うことはすなわち迫害である」と決めつけるのは一方的であると思います。私たちは結局修煉者であるため、自分で返さなければならない業力というものがあり、自分で修めなければならない執着心があるからです。もし、それほど法を実証することに影響が出て来なければ、さらに修煉の角度から物事を考えるべきだと思います。名利に面した時に「得」ばかりに片寄って、失うと「迫害された」と言うのは、依然として執着なのではないかと思います。迫害を否定することは、決して執着心の保障になってはならないと思うのです。
三、根本から執着を修めていない
師父は、「皆さんもご存知のように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんな大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています。本当にそれができれば、あなたはもう羅漢の初級果位に達していることになります」と説かれています。(『轉法輪』)
もし、私たちが何かを失うとすぐ人心が揺れ動き、そうあるべきではないと思うのであれば、私たちがまだ常人のものに執着して放さない証なのではありませんか? 三界の中で、常人の名利の中で見失うのであれば、修煉と言うことはできません。
四、修煉の出発点を見失った
「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであって、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」。(『精進要旨』「修めるものはおのずとその中にいる」)
師父はすでに私たちにこの法理を教えておられ、良いこと、悪いことに遭遇した時はすべてが修煉で、すべて自分の内に向かって探さなければなりません。しかし私たちはすっかり忘れて、他人から褒められ、あるいは利益を得れば「大法弟子だから、やはり違うのだ」と思い、今度は何か不利益に遭遇すれば、ひたすら「不合理」だと感じて、外にばかり求めるならば、事実上これは常人の心を助長し、甚だしきに至っては常人の中の「得る」ことを善し悪しの判断基準と勘違いしています。これはまさに宇宙の大法と背離しているのではありませんか。その「良い」と「悪い」はちょうど常人の中の利益の損得なのではありませんか? 修煉するつもりでありながら、いつの間にか常人の中でぐるぐると回っているのではありませんか?
私たちは真相を伝える中で、常人に自分の修煉状態を述べることができます。例えば病気が治ったとか、あるいは何かの福報を得たなど。これはもちろん良いことであり、大法を修煉するのだから福があることも確かで、常人の中で不思議な現象が出て来るのも当たり前ですから、衆生を済度する上で確実に効果が出てきます。しかし、私たちの心は福報そのものに止まってはなりません。それは、修煉は福報を目標にするものではないからであり、逆に、より速くより多くの業力を消去するためです。修煉者は常人の中の良いことを良いこととせず、この根本的な観念を徹底的に変えなければなりません。
五、自分を実証する心を放さない
修煉する中で、自分が何かを得た時に、顕示心がよく出て、何かを失えば覆い隠し、公然と議論することを避けてしまいがちです。実際には、大法弟子がしたことは法を実証することであり、個人の利益上の損得は大法のすばらしさに影響することはあり得ません。もし私たちが何かを失い、そして、その中から自分の不足を探し当てることができるなら、それは本当に「得る」のであり、本当の法を実証することではありませんか?
私たちは大法弟子であり、自分のしたことが正しいかどうかを知りたければ、師父の法が判断の唯一の基準です。法で物事をはかり、本当の是非と善し悪しを判断することができます。以上はあくまでも個人の見解であり、間違いなどがあればどうぞご指摘をお願いします。
2008年10月23日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/14/187676.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
|
|