日本明慧
■印刷版   

中国大陸の小弟子のちょっとした会得


文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)私は中国大陸にいる小弟子です。今年、高校一年生で、1997年に法を得ました。いろいろ考えましたが、やはり自分の会得を書いて、同修の皆さんと交流することにしました。

 思い付くままに書いてみます。先ず中国大陸にいる小弟子は三つのことをよく行っていないように思います。(我々の地区の小弟子がよく行っていないのかも知れません)なぜでしょうか? それはキャンパスで小弟子が真相を伝えるのをめったに聞かないからです。私もたくさんの同年齢の小弟子と切磋琢磨したことがありますが、特に精進している人はとても少ないようです。私もそんなに精進していませんが、しかし、三つのことはずっと続けており、少なくとも毎日『転法輪』を一講学び、夜十二時の定刻の正念を発してから寝るようにしています。そして、ずっとチャンスを作ってクラスメートに共産党組織からの脱退を勧めています。

 小さい頃から、特に従順で、精進している小弟子はたくさんいるかも知れません。しかし、中学校や大学に入ると、精進しなくなり、更に止めてしまう人もいます。それは本人にとってはとても大きな損失であると思います。このことに関しては、言うまでもなく小弟子自身に責任がありますが、同じ修煉者である両親の責任は更に大きいと思います。子供が高校に入ったから、勉強のことを優先的に考え、大法の勉強は後にするというように考えている大人の同修は少なくないようですが、それは大法を確信していない現われだと思います。

 学生であれば、よく勉強しなければならないのですが、それは勉強の内容によっては違うと思います。現在中国大陸の学校がどのような状況であるのか、大人の同修は詳しく分かっていないかもしれませんが、小弟子も同じ修煉者であり、もし大法の学習を疎かにしてしまえば、常人と同じ状態になるのです。特に、現在の中国大陸のキャンパスは非常に乱れています。まだ幼いのに、すでに恋愛をしているとか、毎日無神論や進化論を注ぎ込まれるとか、数学の宿題に「三つの代表の指導下に、用水路を作る場合の長さは…」というものまでが出てくるようになったとか、国語のテキストに載っている外国の小説に対して、それは資本主義社会の暗黒を風刺しているとコメントしているなどよくない現象があります。

 人間は本性から言えば皆平和を好み、戦争は嫌なものですが、中国大陸のこのような教育は生徒を戦争マニアや拝金主義者にならせようとするものです。中国大陸の大多数の生徒や学生は神や応報を信じなくなり、恐れることを知らないので、喧嘩が絶えません。そもそも自律能力の比較的弱い小弟子は常に大法を学ばなければ、こんな環境にいては、影響を受けないはずがないのではありませんか? 言いたいことが山ほどありますが、要するに、小弟子が多く法を学ばず、修煉と勉強を正しく関係付けなければ、酷く妨害されて、だめになってしまう可能性が大きいということをキャンパスのことをよく分かっていない大人の同修に分かってほしいのです。

 以前、両親(皆大法弟子)が私の勉強について「論争」したことは少なくありません。キャンパスの環境も良くないし、教科書の内容は大体党文化のもので、学校より何かの技術を学ぶほうがいいと父は思っていますが、高校に行かなければ、周りの親戚や友達に誤解されて、法を実証するには不利であると母は思っているのです。私はその時はっきりした自分の考えを持っていなかったため、両親が論争するのを見ると、いつもつらく思っていました。そしてこのような人心が邪悪に隙に乗じられたため、何度も妨害されてしまったのです。

 しかし、このことにうまく対処している小弟子はそれほど多くないと思います。それは三退の数字を見ればすぐ分かることですが、世界中に1億人以上の大法弟子がいるとすれば、一人の大法弟子が毎日一人の常人に三退を勧めると、2004年から現在までの三退者数はただの3600万人というはずはありません。まだどれだけの大法弟子が表に出ていないのでしょうか?(その中に小弟子も含まれています)。どれだけ多くの大法弟子が恐怖心のため、毎日ただ家に閉じこもって、煉功したり大法を学んだりしているのでしょうか? さらに、なぜこの迫害をまだ終わらせないのかと心の中で不満に思っている学習者さえいるのでしょうか? 師父は説法されるたびに、大法弟子は素晴らしいとおっしゃっていますが、師父のこの言葉に接するたびに私はとても恥ずかしく思っています。なぜ終わりの時間がずっと延びているのでしょうか? それは他でもなく我々のせいです! 

 師父は『米国フロリダ州での説法』の中で「もし全ての学習者が皆このようにできれば、皆さんに教えますが、同時に正念を発するその5分間で、邪悪は永遠に三界内に存在しなくなります」とおっしゃいました。つまり、長い間、全世界で一斉に定刻に揃って正念を発する人がどれだけいるのでしょうか。 救われるのを待っている衆生はまだたくさんいますが、恐怖心や他の執着を持っているため、我々はただ家に閉じこもっているのです。我々に不満に思う資格があるのでしょうか? その中には中国大陸の小弟子も含まれているのです。私たちは怠ったり、遊んでばかりいたりして、三つのことをよく行っていませんでした。それはとてもよくないことです。我々が円満成就した時、歩んで来た道を振り返ってみて、恥ずかしく思わないのでしょうか? たぶん天上の神にも笑われることでしょう。

 しかし、角度を変えて言うと、我々中国大陸の小弟子の修煉方式もこのようなものかもしれません。こんな乱れた環境の中で、修煉と勉強を正しく関係付けるのは確かに難しいことです。しかし、もしこんな環境の中でも三つのことがうまく行えれば、それはたいしたことであり、私たちの威徳もその過程で樹立することでしょう。私たちは師父に従い、法を正しに来たのですが、修煉と勉強、一体どちらがより大事であるのか、どちらを第一に位置づけるべきか、このことは師父と法を信じることと関係があると思います。勉強がより大事であり、それは将来の出世に関わっていると思っている小弟子がいるかもしれませんが、大法を学んできて、この道理が分かっているのではありませんか?

 つまり、人間の運命は決まっているのです。修煉者なら師父の法身が見守っておられるのですから、自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られないのです。だから、毎日点数のことばかり考えて意味があるのでしょうか? 真に修める弟子なら、分かっているはずですが、大法の学習が知恵を開いてくれるのですから、勉強に影響するどころか、かえって効率よく勉強できるのです。それから、私と同じようにもう高校に行っている小弟子なら、知っているはずですが、我々はもう子供ではありませんから、はっきりした自分の考えを持つべきです。

 以前、小弟子の書いた文章を読んだことがありますが、いずれも素晴らしかったのですが、しかし、一つの問題に気づきました。大部分の文章に、自分が大法を修めたため、知恵が開き、主要な学校に進学できたとか、或いは大人の同修が大法を修めてから、長年患っていた病気がよくなったなどの内容が書いてありました。このような文章は大法の素晴らしさを実証でき、それは勿論とてもよいことです。しかし、それは病気が治ったから、或いは成績がよくなったから、大法を信じるようになったというように思われます。私が中学校にいた時、あるクラスメートに大法の真相を伝え、後で、彼も大法を修めるようになりました。

 しかし、彼はいつも煉功する時の感じや成績がよくなること、或いは私のように天目が見えることなどを求めているのです。そこで、私は大法を修めてから、少なくともどのようにいい人になれたかが分かるようになり、たとえ天目が見えなくても、大法を信じるべきではないかと彼に言いました。それから、もう一つ注意してほしいことがありますが、つまり思春期に反抗心が出てくるという説がありますが、こんな現象は大法弟子の身には現れないはずです。つまり、反抗心は魔性であり、人間社会の道徳が衰退してから現れた現象であり、本当の自分ではありません。だから、小弟子はこの心理を認めてはいけません。大人の同修も常人のように子供を教育するのではなく、大法を基準に子供を教育すべきだと思います。

 要するに、自分が恐怖心や小弟子への執着を持っているため、小弟子をだめにするようなことのないように大人の同修に気を付けてほしいと思います。彼らにも使命があるのです。だから、この世に迷わずに、大法を堅く信じ、小弟子を率いて共に精進しましょう!

 正しくないところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2008年10月24日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/13/178321.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/5/30/97745.html