日本明慧
■印刷版   

河南省杞県:法輪功修煉者・張明同さんは迫害されて死亡

(明慧日本)河南省杞県の法輪功修煉者・張明同さんは、法輪大法を修煉することを堅持したため、何度も中国共産党当局に連行され、不法に拘禁、労働教養処分をうけて拷問の苦しみを強いられ、心身ともに大きく傷つけられた。2007年11月に労働教養所から家に迎えられた時には半身不随となり、人事不省だった。しかし中共の関連人員に嫌がらせと恐喝をされ、2008年10月2日午後に冤罪が晴れないまま死亡した。58歳だった。未成年の娘2人が残された。

 1999年7月20日から、江沢民グループは不法に法輪功を弾圧し、残酷で卑劣な手段を使って、すべてのマスコミを利用して法輪功を誹謗中傷し、ぬれぎぬを着せた。張明同さんは何度も陳情に行ったため、様々な迫害に遭った。1999年7月22日に省都に行って陳情を行い、法輪大法を実証したため、県公安局に車で連行され、不法に県の留置場に拘禁され、さらに残虐な拷問で迫害を強いられた。当局は「馬歩」(疲れる姿勢の一つ)に立たせる、両手を後ろに回して手錠を嵌める、 重い足かせを掛ける、びんたを食らわせるなどをすべてやりつくし、不法に1カ月以上拘禁してから釈放した。

 1999年11月、張明同さんは北京へ陳情に行って、杞県の610弁公室(江沢民が法輪功を迫害するために創立した組織で、公安、検査院、裁判所の上にランク付けされている)と公安警察に不法に北京から杞県まで連行されて、留置場に拘禁された。その間残虐な拷問の苦しみを嘗め尽くした。縄で縛り、背に回して手に手錠をはめ、受刑者からのめった打ち。寒い日に警官らは張明同さんの服を脱がせ、公安局のいちばん上の会議室に連れて行き、扉と窓を全開し、扇風機を掛けて、3時間ほど凍えさせた。張明同さんは迫害に抗議するため、何日も絶食してやっと戻された。

 2000年5月、張明同さんは再度北京へ陳情に行って、もう一回杞県の610弁公室と公安警察に連行されて、杞県留置場で数カ月間拘禁された後で不法に判決された。肉体と精神上の迫害を受けて、高度な貧血になり、血球指数が極めて少なく、生命が危篤になったため、一時出所で家に戻された。彼の体が少し好転したところで、また県の610弁公室と公安局に留置場まで連行されて、その後不法に3年の刑を下され、密県刑務所に送り届けられた。

 刑期満了時点で、張明同さんの体は極度に衰弱していたが、学法と煉功を通じて、やっと次第にすこし回復した。

 2007年8月12日、悪党当局はオリンピックが間もなく開催されるという口実でたくさんの法輪功修煉者を連行した。張明同さんもその中の1人だった。8月12日の夜1時ごろ、杞県公安局の国保大隊元大隊長の劉洪涛と砂沃郡派出所の元所長の李向陽らは張明同さんの家に来て、いかなる令状も提示していない下で、理由を示すことなく張明同さんを強制的に連行し、不法に杞県留置場に監禁・迫害し、数日後に1年と9カ月間の労働教養処分を科し、さらに悪名高い河南省許昌労働教養所に送り込んだ。

 労働教養所の中で、張明同さんは苦しみを嘗め尽くし、心身ともに打撃を受けた。強行に洗脳する、修煉を放棄しない限り睡眠をとらせない、麻薬中毒者からの滅多打ち、強制的に残業をさせるなど酷使され、満足に食べさせなかった。張明同さんは苦しめられて血圧が上昇し、手足が麻痺し、自力で生活できなくなっても、労働教養所は依然として釈放しなかった。その後半身不随となり、話せず、人事不省になって、2007年11月にやっと家族に迎えられて帰った。

 帰ってから、家族の細心の世話を受けて、張明同さんはすこし好転し、手足が動き、話もできるようになって、学法と煉功をした。張明同さんは絶えず学法と煉功をして、体がよくなり、自分でベッドから降り、杖を使って自力でトイレに行き、食事もでき、自力で簡単な生活をする事ができた。しかし悪党は法輪功を迫害することをやめなかった。オリンピック直前に現地の派出所は県の610弁公室と公安局の指図を受けて、何度も張明同さんの家に行って嫌がらせし、恐喝した。恐喝と嫌がらせをされて張明同さんの精神状態も日に日に悪化して、病状が次第にひどくなり、2008年10月2日に冤罪が晴れないままなくなった。

 (注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)

 2008年11月1日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/30/188783.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/11/1/101914.html