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河北省:大学教師、冀東刑務所で迫害される(写真)

(明慧日本)河北理工大学軽工学院の教師で法輪功修煉者の孟凡全さんは、不法に7年の判決を下され、2年来冀東刑務所で残酷な迫害を受け、3回厳管隊に送られた。例え厳管されていない場合でも、塩田で奴隷のように重労働を強制され、ひどいハロゲンのプールの中で塩をならす仕事をさせられた。獄卒からは死ぬほど殴られ、孟さんは一度意識不明になったという。家族は何度も見舞いに行ったが、すべて刑務所側に断られた。


 孟凡全さんは1962年生れで、唐山市河北1号の団地に住み、小さい時から身体が弱く病気がちだった。90年代の初め頃、胸が焼けるように熱くなる珍しい病気にかかった。1994年法輪大法に出会い修煉を始めてから、長い間の身体の不調がなくなり、胸の中に火がついたような感じもなくなった。学校の上司や近隣の者はみな彼がよい人であると褒めている。しかし1999年7月、中国共産党が法輪功を弾圧して以来、孟さんは何度も不法に拘禁され、かつて不法に1年の労働教養を科された。

 2006年4月18日午後、孟さんは勤務先で唐山路北支局によって不法に連行された。当日午後5時半頃、13歳の子供が留守番をしていた孟さんの家に、国保大隊の長陳紅は警官とぐるになってドアをあけるよう子供を騙し、家に入って家財を没収し、パソコン等1万元相当の私物を奪い取り、子供が箏の曲を録音するためのMP3すら見逃すことなく奪い去った。

 2006年9月12日午前、警官は事前に謀って、孟さんをパトカーで路北裁判所での審判に引っ張り、午前11時10分までの審判には家族3人しか傍聴を許さなかった。孟さんは自ら無罪の弁護をした。彼が裁判所から出て来ると、中庭にはすでに約60人の支持者が集まり、「孟凡全さんを無罪釈放せよ」と叫ぶ人もいた。

 孟さんは不法に7年の刑を下され、2006年10月末に冀東刑務所に移送された。妻は10回面会に行ったが、1回しか会うことができなかった。冀東刑務所の警官は、「死んでも行かせない」と言いふらした。

 冀東刑務所は新しく移送されて来た法輪功修煉者に対して、まず厳管隊で迫害し、1日24時間壁に向かって立つことを強制し、少しでも居眠りをしたらすぐさま暴力を加え、警官の「転向」の要求に従わなければ、このように苦しめ続けられる。孟さんは5昼夜足が黒く腫れるまで苦しめられた。

 2007年の後半、孟凡全さんは3回厳管された。警官の陳開(獄偵科長、法輪功修煉者を苦しめる様々な残酷な方法はすべて彼が指図した)は、孟さんの両手を椅子の後ろにまわして手錠をかけ、朝から夜9時まで炎天下のグランドに放置した。その時の気温は最高で40度以上にもなった。

 最も激しい怒りを覚えるのは、手錠をかけられたまま蚊に刺されることである。冀東刑務所は唐山市南約75キロメートルの位置にあり、現地の蚊は珍しいほど多く、夜の7、8時になると、人々は外で涼む勇気がない。蚊が多すぎてなかなか払いきれないからだ。このような中で、孟さんは椅子の後ろ側で手錠をかけられたまま、顔、首、頭、腕、手足等を蚊に刺され、どこに刺されたのか判別できないほど一面に赤く腫れた。こうして3日間苦しめられた。

 河北省冀東刑務所は唐山東南豊南区の浜辺塩田地帯に位置しており、中は9つに分けられている。本部は岸辺の尖ツオ子にあり、法輪功修煉者たちはその1・2・4・5隊に拘禁されている。2002年の時点で冀東刑務所に不法に拘禁された法輪功修煉者はおよそ60人だったが、今1・2・4・5隊だけで100人を上回り、すべて河北各地から不法に連行された大法修煉者である。2008年は、広東、北京から移送された修煉者が多かった。

 2008年11月5日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/11/2/189049.html