日本明慧
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母親との関を乗り越えることを通して、会得したこと


文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)修煉の過程で、他の同修との関を乗り越えられないことはめったにありませんが、同じ修煉者である母親との関をずっとうまく乗り越えることができません。主な原因は私が母親の執着に対して既に観念を形成してしまったからです。

 母親は兄や兄嫁との関を長い間うまく乗り越えていません。母親はいつも我慢するように心掛けていて、その状況はだんだん良くなりつつありますが、まだ憎しみもなく、恨みもないと言う修煉者として持つべき基準には達していません。常人と世間話をするたびに、必ず兄と兄嫁の悪口を言ってしまいます。そんな話が私の耳に入ると、私はすぐ怒って「それが法を実証すると言えるのだろうか? 大法の真相や素晴らしさを伝えず、これらのつまらないことばかり言うなんて、旧勢力に迫害の口実を与えることになるのではないか?」と思ってしまいます。私は母親の執着に執着すればするほど、母親のそれらの執着がますます私の目に入るようになり、仕舞には母親は他に文句を言う相手がいないと、私に向かってそれらの文句を零すまでになったのです。それに、母親が必要もない家事までして、大切な時間を無駄遣いしてしまうのを見て、私はまた非常に不満に思いました。師父が分からせるように夢を通してヒントを与えてくださいましたが、私はやはり悟れませんでした。母は暇ができても学法もせず、テレビを見てしまったり、邪党に対してもはっきりと認識しておらず、大法の書籍を手にすると、すぐうとうとしたりするのです。すると私は「主意識をはっきりさせなさいよ、《転法輪》の中の「主意識を強くもつべし」と言う段落を暗誦してみたら」と助言します。すると母は「いや私は主意識がハッキリしていますよ」とすぐ反発します。「共産邪霊をハッキリと認識していないから、党文化を打ち破るDVDを見てみたらどうですか」と私が言うと、「とてもそんな時間はない、時間があれば、大法をよく学ぶはずだと思うけど・・」と母は自分の理屈を言ってしまうのです。

 私は母親以外の同修とは全くこのような体験はありませんが、自分に問題があると分かってはいるものの、母親が常人と同じレベルの会話したり、大法に符合しないやり方を見たりすると、やはり我慢できず、怒ってしまい、落ち着きを失ってしまうのです。例えば、私が落ち着いて大法を学んでいる時、母親の会話が耳に入ると、その日はもう大法の学習もできず、心の中でずっとこのことが気にかかって、彼女を責めたりしているのです。そして、怒りを抑えきれなくなると、修煉者とはいえないほど酷い言葉で母親を叱ってしまうのです。一見して自分が理屈に合っているように見えますが、実はそれは魔性の大いなる現れなのです。すると、こんな光景を目にした家族の常人が私に向かって「修煉していない時はまだよかったのに、なんで修煉してからかえって荒っぽくなってきたのだろうか? 母さんを見てごらん・・昔は怒りっぽかったけど、今はなんと言われようと怒らないし、実によく修めているよ」と注意され、そして、もし私と母が皆自分の考えに固執して言い争いするのを見たら、「自分のことをもう修煉者というのを止めなさい・・その心性では常人の私にも及ばないよ」と言ってしまうのです。自分の言動は既に常人に悪い影響を与えてしまったと知ってはいますが、やはり母の執着を見ると、怒ってしまうのです。それで、私と母とのわだかまりがますます大きくなり、仕舞には、私が口を開けると、母はすぐその場を離れるまでになったのです。

 母との対立がますます酷くなり、私はとても辛かったのですが、「オーストラリアの学習者に対する説法」を学んでから、やっとすべてが好転するようになりました。私はそのDVDの二十何回目かを学んだ時、そのよくない要素が師父によって取り除かれ、自分が生まれ変わったように感じました。落ち着いて内に向かって探してみると、自分の不足点をたくさん見つけることができました。先ず私は母親を同修と見なすのではなく、常人の家族の観念で物事を考えるようにしました。これまでは自分の考えを相手に無理矢理押し付けていて、己に甚だしい執着があり、それから、私は母と一つの全体を形成しておらず、一緒に法を学ぶことなく、自分が忙しいことを理由に、家事を全部母になすりつけ、彼女を忙しくさせてしまっていたのです。問題が出ると、私は旧勢力と同じ表現で彼女を指摘し、恰も邪悪の味方のようであったと分かるようになりました。それ以来、母の何らかの問題をみても、先ず法理に基づいて落ち着いて問題の根元を認識し、それから、母が直すかどうかに執着せず、ただ誠意を込めて母に問題点を優しく教えてあげるようにしました。そうしたら、母も内にむけて探すようになりました。母親のその前後の巨大な変化にびっくりし、私はこれで大法の素晴らしさを改めて実感しました。

 昔、労働教養所に不法に拘禁されていた時、或る同修は各方面でもよく行いましたが、ただ同郷人で、もともと仲の良かった他のもう一人の同修との関はなかなか乗り越えられませんでした。当時私はそれを目にして、不思議に思いましたが、今は分かるようになりました。愛であろうが、恨みであろうが、それは他ならぬ同修と同修の間に「情」が生じたからだと思います。相手も同じ修煉者、特によく知り合っている同修だと、言葉の度合いにも気を使わなくなり、いつも無意識のうちに感情的になり、自分の考えを相手に押しつけているのです。

 私が他の同修との関をうまく乗り越えられるのは、つまり私は常に心の中で「我々は皆修煉者だ。だから、修煉者なりに付き合わなければならない」と自分に注意しながら行っているのであり、殆ど「情」を交えて付き合うことがないからです。それに対して、母親を相手にすると、いつも「情」を交えてしまい「あなたも大法弟子だから、大法の要求通りにやらなければならない」と無理矢理要求してしまいます。実は心の中で「あなたは私の母親だから、このように言うのはあなたのためなのだ」と言う考えが潜んでいるからです。それは恰も親が子供の出世を願う気持ちと同じなのです。そして、いざ自分の要求や観念に合わず満足出来ないとき、今度は相手を恨むようになります。ですから、同修の執着に執着する心を放下しなければ、慈悲心も生じないのです。のちに自分の執着に気づくようになり、相手が直すかどうか? と言う結果に執着せず、清らかな心で接する事ができたとき、かえって相手にも変化が起こったのです。

 この文章はここまで書いた時、私は暫く筆を止めました。と言うのは、私はまだはっきり認識していないところがあり、まだこの執着の根元を掘り出していないと感じたからです。それからの1カ月間、私はまた母と何度かもめました。時にはずっと我慢していて、もう少しでその関を乗り越えようとしたところで、我慢しきれなくなり、酷い言葉で口答えしてしまったのです。後で自分も不思議に思いますが、なぜ母の執着にあれだけ執着するのでしょうか? この怒りや、嫉妬心はどこから来るのでしょうか? 時には母親が私に自分の執着をわざと見せているように見えるのです(本当はわざとではないが・・)。しかし、もし私に彼女の執着に執着する心がなければ、そんなこともないのでしょう。それは師父が《転法輪》の中で教えてくださったように、武術をやる人が闘争心を捨てなければ、他の人が闘いを求め、殴り合いを挑んでくることと同じ理屈だと思います。ある日、私は第二式の功法を煉功しているとき「他の人に聞こえてしまうから、音を小さくしたら」と母に言われると、落ち着いていた私はすぐに不平不満の心が生じ、「この音楽は聞く人のためになるのだ。恐れる心がこれほど重かったら、むしろ修煉を止めたほうがいい」と頭の中で反論し、そして、母のいけないところがいちいち頭に浮かんでくるのです。暫く経って、これは妄想じゃないか? と気づくようになり、これらのことを考えないように努めましたが、すぐには落ち着きませんでした。そこで、修煉は苦しみに耐えることではないか? 必ずや母との関をうまく乗り越えて、慈悲心で対処するようにしようと決心したら、落ち着きを取り戻しました。そして、師父が《苦其心志》の中でおっしゃった「吃苦を当(まさに)に楽と成す」と言う言葉のもっと深い内包もわかるようになりました。

 なぜ母の執着を目にした時、私はあんなに怒るのでしょうか? もしそれらの執着を私が持たなければ、それは高い次元にいる神が下の次元にいる神を見ることと同じように、ただ慈悲で対処するだけであり、とても怒りなどの魔性はないに違いありません。同じ次元にある物質こそ相克なのです。私が怒るのは母の持っている執着を私が皆持っているからです。母がまるで私の鏡のようです。母の恐れる心が重いのを見かけますが、師父の説法のビデオを見るとき、私も他の人に聞こえるのを恐れて、音を小さくしたのではありませんか。母が兄嫁に不満を持っているのを目にしますが、私も同じように兄嫁が兄に対して態度が悪いのを見ると、不満でたまらないのではありませんか? よく内に向けて探したら、母の執着は実は自分も同じように持っていることが分かりました。こんなことを通して私に自分の執着を分からせてくれのですから、私は同修(母)に感謝すべきではありませんか。

 母との関を乗り越えることを通して悟ったのですが、関を乗り越えるとき、どんな心理状態になれば、大法の基準に達したと言えるのでしょうか? それはトラブルの相手が常人であろうと、大法弟子らしくない言行をした同修であろうと、本当に内にむけて探し、心性が昇華してから、相手に対して、内心から感謝すると言う心理状態になってはじめて大法の基準に達したと言えるのだと思います。

 本当に内に向けて己を探すべきであるという法理を悟るようになってから、さらにまた1カ月が経つと、私は母に対して少しも不満を持たなくなり、自分の生命を構成する物質が根本的に変わったように感じました。そして、私が内に向けて探し、自分を変えるようにしたら、母も根本的に変わっているのです。母に時間を有効に利用し、説法を聞かせるために、mp3を買ってあげましたが、ある日、母は私のところに来て、「師父の「オーストラリアの学習者に対する説法」を聞いてから、急に悟ったのですが、修煉者と常人とのトラブルが起きたとき、百パーセントが修煉者の間違いだという内容を説法でおっしゃいましが、兄嫁とのトラブルに関して、昔は絶対自分には間違いがないと思っていましたが、今、それは自分の間違いだったと分かるようになりました」この事を師父は教えて下さいました。さらにまた1カ月が経ち、大法の学習を通して母はますます正念が強くなり、真相資料をたくさん配ったり、私にできないことをたくさん行いました。

 私は本当に自分の内に向かって探し、先ず自分を変えるように心掛け、母も大法の学法を通してますます理性的になり、頭がはっきりするようになったのです。こんな結果になるとは私には想像も付かないことでした。私は、このことを通して分かったのですが、私たちが師を手伝い、法を正し、衆生を救い済度することを行う時は、自分の修煉と歩調を合わせているのです。私たちがどれだけ大法に同化するかによっては、外部もそれに合わせて変化が現れてくるのです。

 自分の次元に限られた認識ですが、ご指摘をお願いいたします。

 2008年11月7日


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/14/187674.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/10/29/101842.html