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湖北省:劉暁蓮さんは毒物を注射され、めった打ちされて死亡(写真)

(明慧日本)湖北省赤壁市の法輪功修煉者・劉暁蓮さん(69歳くらい女性)は2008年10月16日午後、冤罪が晴れないままこの世を去った。99年7月20日に中共が法輪功を迫害して以来、劉さんは何回も赤壁市留置場に強制連行され、さまざまな残酷な迫害を受けた。2006年4月26日、強制連行された。赤壁市蒲紡精神病院では毒物を注射され、毒薬を飲まされ、常に暴力を振るわれた。2008年8月、余命僅かとみて、家に戻された。当時劉さんは全身が浮腫み、気息奄々の状態になっていた。

劉暁蓮さん

迫害されて全身が浮腫み、気息奄々の状態の劉暁蓮さん

 劉暁蓮さんは赤壁市赤壁鎮八宝刀村の人。1958年、当時は中国共産邪党が鋼鉄を大いに精錬していたころ、劉さんは両目が突然痛みだし、半月後片方の目が失明した。1995年に大法を修煉し始め、半月後、失明していた目が見えるようになった。性格は穏やかで、心優しく、明るくなり、体は元気になった。1999年7月20日に中共邪党と江沢民集団が法輪功を迫害し始めて以来、劉さんはかつて何回も中共悪党により残酷に虐待された。

 2000年12月、劉さんは北京へ法輪功の真相を伝えに行ったところ、天安門広場で、警官に捕えられ、陰部を脚で蹴られた。3日後、 100人以上の法輪功修煉者とともに遼寧省海城市へ送られた。大雪が結氷する寒い中、警官は法輪功修煉者の衣服を脱がせ、下着だけにして、凍えさせせ、餓えさせ、拷問で虐待した。

 2001年正月17日、劉さんは赤壁公安により海城市から戻され、赤壁市第二留置場に監禁された。公安局は葉軍という用心棒を雇って劉さんを迫害した。毎日午前、葉軍に頭、目、胸、腹などをめった打ちされ、午後は4時間以上膝まずかされた。こういう状況が連続して1週間続いた。その後、新年の休みになり、第一留置場に送られた。当時の政治保衛科の課長・蔡金平も直接参与した凶悪犯である。

 2002年6年28日は大雨だった。蔡金平(市公安局政治保衛科課長)、鄧定生(市第一留置場副所長)、銭玉蘭(市第一留置場副所長、女性監房の主要管理者)、宋玉珍(市留置所女性監房管理教育幹部)などは劉さんを婦人・子供保健所に連れて行き、強制的に薬物を注射した。劉さんは頭部から出血し、両耳は爆発したかのように、しばらく痛み、吐いたり、下痢したりして、何度も気絶した。

 警官は家族に、劉さんはもうそのうち死んでしまうだろうと言い、夫から3000元を騙し取り、また担保書を書かせ、2002年8月28日、病気のための釈放という名目で、劉さんを釈放した。

 劉さんは死ぬことはなく、頑張って立ち直り、外に出かけて、法輪功に対する今回のでたらめな迫害と弾圧を暴露した。人々はみな涙ぐんで、劉さんの遭遇した迫害の状況を聞いていた。

 噂は公安局に伝わり、劉さんが頑張って立ち直った2日目、現地の公安はベッドにいた劉さんを直接強制連行し、10月17日にはまた第一留置場へ移した。

 2002年12月6日、劉さんは赤壁市第一留置場で所長・鄧定生をはじめとする19人の警官と受刑者に同時にめった打ちされ、5人により同時に五つの方向へ強く引っ張られ、陰部は裂け、全身の骨が外れた。また、警官らは25キロの鉄の鎖と足かせを使って、交替で劉さんを殴った。

 2004年2月4日、国連拷問問題特派員は劉さんのために緊急救援を呼びかけた。劉さんは2004年5月29日、市留置場で5カ月間、さんざん虐待された後、鎮幹部と派出所の警官に家に運ばれた。

 2006年4月、法輪功の真相資料を配っていた時、劉さんは公安スパイにおびき出されて逮捕された。赤壁市公安局に精神病を口実に赤壁蒲セキ紡織本工場病院の精神科に監禁され、虐待された。劉さんはめった打ちされ、毒物の注射、毒薬の灌食、高圧での電撃、男性精神病患者による侮辱などの迫害を受けた。不法に監禁されて間もなく、迫害により一時期話すことができなくなった。

 精神病院の張主任医師など4人は劉さんを迫害した主要人物である。張主任医師と赤壁鎮政府、派出所は互いに取引をし、赤壁鎮に6000元を使って、劉さんを殺害した。張主任医師とほかの共犯者らは高圧のスタンガン、電気針で、4時間劉さんを電撃し、毒薬を強制的に灌食し、点滴した。一昼夜で約5リットルの毒薬を注射し、体全体が黒くなり、黒人のようになった。劉さんは2昼夜、意識を失い、意識が戻った時はもう話せなくなっていた。 

 劉さんは不明の薬物を注射されて言葉が話せなくなった後、善を勧める多くの手紙を書いて、張主任医師や他の邪悪な共犯者らに手渡し、彼らが金銭のために法輪功修煉者を迫害したことを暴露した。

 2年あまり、劉さんは精神的、肉体的に苦しめられ、全身が浮腫み、食事を摂ることも難しくなり、気息奄々の状態に陥った。医師は20数日しか生きられないと確信し、2008年8月、劉さんを家に戻した。劉さんは2008年10月26日午後、冤罪が晴れないままこの世を去った。

赤壁市蒲紡精神病医院

 2008年11月17日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/10/31/188927.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/11/2/101943.html