日本明慧
■印刷版   

平穏の中で修煉し大法を実証する(二)


文/山東省イ坊の大法弟子

(明慧日本)2000年後半、私は同修に資料をもらって配布していました。最初、私は自分の叔母(同修)のためにもらっていました。2001年春から、同修が私と一緒に、周辺の同修たちのために資料をもらおうと誘い、私はためらうことなく従いました。それ以降、どんな日でも私は周辺の同修たちの資料をもらうために行っていました。同時に、小さい範囲で同修たちが法を実証することを協調するようになりました。

 2003年、私達の地域は、大法弟子の資料を受け取る担当になりました。地域全体の数百人の同修への資料供給を担当することとなり、責任重大です。資料供給を担当してい同修は協調人を変える必要があると考えていたところ、私の条件が合うということで私と交流し、私も自分がやりたいと思い、その役を快く引き受けました。私はそれからたくさんの同修と接触するようになりました。しかし時々同修に何かあると、私家族は私を心配し、同修が私の名前を言い出すのではないかと心配するようになりました。しかし、私は決して同修に対してそのように考えませんでした。皆、師父の大法弟子であり、皆、正念が強ければ何も起きません。何人かが不法に労働教養処分を言い渡されましたが、釈放されてから私に「監禁されたとき、私は何度もあなたの名前を言ってしまいそうになりました。しかし、言おうとした瞬間、脳裏に『他人のために考えるべき』という師父の説法がいつも思い浮かびました。そこで、やっぱり言いませんでした」と話しました。それを聞いて私は、慈悲なる師父が私を救ってくださったと思いました。私達が正しく行なえば、師父は何だって私達のためにしてくださいます。

 その当時、資料点がたくさんの資料を供給していたため、車で毎日二回も私の家に資料を送らなければなりませんでした。地域の同修たちは毎週何度も私の家に資料を取りに来ました。私の家族が心配するようになり、プレッシャーも感じるようになりました。私は家族に真相を伝え、彼らの正念を啓発しようと思いました。彼らに、良くないことを考えずいつも良い方に考えるよう教えました。なぜならば、私達が行なっていることは最も神聖なことであり恐れることはないからです。このように家族に真相を伝えれば伝えるほど、家族も理解できるようになりました。

 同修が家に来ることがけっこう多いので、隣人も知るようになりました。しかし私は落ち着いて、正の場をもって周囲を制することができました。大法の資料点は同修たちの安全面を考慮して、週ごとに資料の受け取り場所を変えるようにと言われたのですが、なかなか良い場所がなく、ずっと私の家を受け取り場所にしていました。師父のご加護のもとで、法を実証するための資料は、今日までずっと私の家で平穏に渡しています。

 周辺の退職した同修は、法を実証することに非常に熱心で、大法の資料点に対する圧力を軽減することができました。また、私達は資料の作成に携わっていました。2003年から、大法の資料点は、私達に既製品ではなく原料しか提供せず、私達は数百人の資料の印刷、編集にかかわるようになりました。作業場は私の家でした。

 2004年11月、『九評』が発表され、私達はまた『九評』を作るようになりました。『九評』を作ることはそれほど簡単なことではありません。編集しながらきれいに作るのは大変なことでした。特に、ナイフで切る仕事があったので非常に大変でした。しかも上手く切らないといけません。最初は、ある若い同修と一緒にやっていましたが彼は他用ができたため、私の夫がやるようになり、最後には私一人でやることになりました。紙を切る量が多いため、ナイフが壊れてしまいました。同修が修理するのを待っていたとき、私は「癌になった人が大法を修煉したら良くなるのに、大法の仕事の道具も超常的なものではないか」と思い、まだ使えるいう一念を抱いてナイフを持ってみると、なんとナイフは元に戻っていました。

 2004年末、『九評』の発表に合わせて、より小さい規模の資料点もできるようになり、私の家が中心となり、その後、私達の地区でたくさんの資料点が発足され、衆生を救い済度することに大きな作用を果たしました。

 (続く)

 (第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)

 2008年11月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/10/189014.html