■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/11/26/mh273015.html 



中士から真に修める弟子へ(三)

文/中国東北地区大法弟子

(明慧日本)

 (三)文章を書いて、地元の邪悪を暴露する

  家庭資料点が増加するに連れて、私の時間が多くなってきました。法を学んでから、私はこれから自分が何をすればよいかをよく考えました。

  ちょうどその時、同修の書いた文章の「当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する」に対する師父の評注文章が発表されました。そこで、地元では迫害の状況が暴露されていないので、邪悪があんなにはびこっている。だから、地元の邪悪を暴露し、真相資料を編集するようにすべきだと私は悟りました。

  そこで、私は簡単な編集知識を同修に教えてもらい、編集に取り掛かりました。キーボードのキーはそれぞれどんな機能があるか分からなかったので、私はキーを逐一押しながらそれぞれの機能を記録するようにしました。第1冊目の小冊子を編集する時、私の知恵を師父が開いてくださったことを感じました。小冊子のすべての内容、本線と支線の配合、更に写真の配置まで全部はっきりと私の頭に映り、私はただその内容をそのまま貼り付ければいいのです。このように全然骨を折らず、1冊目の小冊子が出来上がりました。しかし、私にはその願望があるだけで、全部の全部が実は師父がやってくださったのだと、私にはよく分かっているのです。このことを通して、「修は己にありて、功は師父にあり」という法理の内包をもっと理解できるようになり、それから、よく行なっていくようにと師父がこのやり方を通して励ましてくださっておられることもよく分かりました。

  第1号の真相文章が明慧ネットに載った時、我々の地区の邪悪を暴露することがこれで始まったのだと思うと、私は内心の震撼を感じました。しかし、しばらくして一つのことに気づきました、つまり、文章をダウンロードしてチェックしてみると、半分くらいの内容が変更されていたのです。このことを目の前にして、私はまた内に向けて探すようにしました。そして、最初は不満でしたが、だんだん冷静になってから、明慧同修の指摘を素直に受け入れるようになり、彼らに感謝する気持ちでいっぱいでした。それから、明慧の同修が衆生に責任を負うという立場に立ち、本当に文章が衆生を救い済度する役割を果たしているかどうかということを考えているのであり、別に編集者の面子や或る集団の利益を守るのではないということもよく分かるようになりました。

  このように明慧同修が手入れをした文章を通して、真相資料を編集することに当たっては、衆生を救い済度する立場で素材を選ぶべきであり、別に自分の観念に符合するものを衆生に押し付けてはいけないこともだんだん理解するようになりました。だから、その後編集し終えてから、私はいつも大法に迷いがある衆生がこの内容を受け入れられるかどうかと言う立場から文章を見直すようにしたのです。すると、投稿した文章が手入れされることがますます少なくなり、時にはそのまま載ることもあるのです。

  それから、編集を通して、自分を修めることもその中に含まれることの重要性をもっと感じられるようになりました。例えば、時には、編集した内容を丁寧に校正せずに投稿したら、発表された文章にミスがたくさんあったのです。ほどほどでよいという考えで編集したら、発表された文章がすっかり手入れされてしまうのです。ここ数年の経験を通して、私もだんだん成熟するようになり、理知で真面目に対処して初めてよく行えるということもよく分かるようになりました。

  地元で邪悪を暴露する真相が大量に現れることにより、大法弟子に対する迫害を抑制することにおいては巨大な働きをしました。真相の分かる人が大法弟子を守るようになり、元々悪事を働いた人は自分の名前を明慧ネットから削除してほしいと大法弟子に頼むことさえ現れてきたのです。このことを通して、もしすべての大法弟子が皆師父の要求されたとおりに行うようにすれば、この迫害がとっくに終わってしまうのだろうと私は悟りました。

 (四)何も求めず自ら得る

  私が修煉の過程で触れた同修は皆無私で誠意を持って和やかに接してくれました。それは修煉者のもつべき状態だと私は思っています。私は技術を身につけてから、常人のように保守的に、それを私財のように思いませんでした。と言うのは自分の身につけた技術は一種の功能であり、それは法を実証するために使うべきで、無条件に同修に教えるべきだと思ったのです。だから、わたしはその技術をもっと受け入れやすくするように完備して、それを全部同修に教えなければなりません。後で気が付いたのですが、それらの技術を全部同修に教えてから、常人がよく言う「技術を他人に全部教えたら、自分に仕事がなくなる」という現象は全くありません。逆に師父はいつも更に大きな知恵を開いてくださったのです。例えば、プリントとログインの技術を同修に教えたら、システムをインストールする技術を身につけさせるようにしてくださり、それをまた同修に教えたら、今度真相資料を編集する知恵を開いてくださったのです。

  表面から見れば、偶然に或る同修に会ってから、教わったり、たまたま或るキーを押したり、或る説明の文章を読んだりすることを通して、自分の学びたい新しい技術を身につけたように見えますが、実はこのすべては皆師父が段取りしてくださったのです。正に説法の中に説かれたように「言い換えれば、どの領域にいても、あなたの技能が向上できれば、それは自分の境地を高めたあとの現れです。見た目では、あなたは良い人を目指しており、心を修めています。人間の角度から言えば、あなたは良い人になり、法を勉強し、内に向けて修煉しているから、行ないがますます良くなり、そのため、神はあなたに備えるべき智慧とひらめきを与え、勉強の中で多くのことを分からせ、さらに良いものを創造させ、もっとレベルの高い技術を身につけさせ、飛躍があるようにします」(『ロサンゼルス市での説法』)

 (つづく)

 (明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会原稿)

  2008年11月26日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/11/6/188774.html

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