日本明慧
■印刷版   

時間に執着し、極端に走る同修と交流する


文/大陸大法弟子

(明慧日本)私はかつて正法の終わる時期に関心を持ち、切に正法の終わりを切望し、甚だしきに至っては仕事も放棄しました。結局大きな損をもたらし、衆生の救い済度に影響を与え、親戚と友達も理解できずに大法を誤解し、自分の真相説明にも影響しました。

 今日、このような人心の根源は利己と自我であることがはっきり分かりました。よく考えみると、私達は先史に洪大な誓約をしており、師について正法し衆生を救い済度するために来たのであり、脱出することばかりを考えるのは、私達の正念ではありません。自我のための「人」の念です。また、若い同修は結婚相手を探さず「残り時間があまりないから面倒なことをしたくない」と言った。「仕事をするべきだ」と話したら、やはりオリンピックが終わってから考えると答える人もいます!

 結婚相手を探さない、仕事をしない、商売を中止するなどのことは、これらはすべてが個人的な行為で大法の中のものではありません。しかし普通の人はこれらのすべてが大法を修煉するためだと誤って認識しました。欲求を放下するのはすべてしないわけではなく、私達の人心を放下するということです。ある同修は極端に走って、家族も離れ離れになり、貧しくて生活も続けられなくなり、家屋が倒れそうになっても、仕事をしたくないと、耕作を怠けて、同時に多くの常人に真相を説明する機会を失いました。ある同修は近くを放っておいて遠くを求め、自分の周りの人、親友に対して、ただ自分が正しく対処さえすれば救い済度することができるのにも関わらず、わざわざ影響力の大きい「大事」をしています。極端に走るため周りの衆生を深刻に誤解させ、彼らは大法を認めることがとても困難になりました。たとえ別の同修が老婆心を持って繰り返し忠告しても説得できず済度しにくくなります。

 私達は時間も大事にしなければなりませんが、これは自分のためではなくて他人のため、衆生のためで、時間はますます切羽詰まっており、私達が人を救い済度することも緊迫しています。ある人は1日中本をささげて学法するばかりで、何もしません。しかし私達が人生の中ですべきことは、個人の修煉ではなく衆生を済度することで、まさに衆生を済度する過程の中で私達は本当に自我を放下して円満になります。もし、引き続き自我の念を抱えていれば、「法を学びて法を得る(『洪吟』<実修>)の意義が分かるはずがありません。同時に今の大法弟子としての重大な意義を体得することができません。

  個人的な認識であり、ご指摘をお願いします。

  2008年12月3日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/11/27/190527.html