正しく行なう(二)
文/河北省の大法弟子・阿蓮
(明慧日本)
二、正しく振舞う
修煉の過程において、もう一つの深い体得があります。大法弟子が常人の環境の中で、品行を正しく振舞うと、人々は自然と大法のすばらしさを感じることができ、邪悪がデマをいくら流しても、自然に崩れてしまうのです。逆に、大法修煉者が師父の要求どおり行わないと(例えば家事をきちんとしない、何もしない、会社、社会での行いがよくない等)、衆生を済度できないばかりか、衆生を壊滅させる働きをするのです。常人は法とは何かわからないので、大法弟子の言動と大法弟子の行いの良し悪しによって大法を理解するため、これらは彼らの大法に対する一念に影響を与えるのです。
私は以前、文芸方面の仕事をしていたので、この小さな町ではみんなに知れ渡った「有名人」で、それなりに影響力もありました。私は自分自身に対し厳しく律し、師父の「大志を懐きながら細かいことに配慮」(『精進要旨』の「聖者」)することを心に銘記し、常に法に沿って正しく行動するよう気をつけ、師父と大法に泥を塗らないように自分を戒めました。私を知っているすべての人が、私を見て真善忍を感受し、大法弟子の風貌を見ることができ、大法に対する正しい認識を持つことができるよう気をつけています。同時にこれは私と縁がある生命に対する慈悲でもあると悟りました。
修煉する前は服装や外見を気にし、常人のファッションなどにも流され、つめを塗り、髪を染め、厚化粧をし、性的魅力を追求したりしていました。心性の昇華につれ、これらの変異した観念も規正されつつあります。服飾と心持ちは表裏一致であるべきで、これも「真」の一つの現れであると私は悟りました。一人の修煉者として、心境はますます清らかで高尚になるべきで、服飾も素朴で上品であるべきなのです。
ここまで書いて、ある農村の同修を思い出しました。一部の農村の同修は外見に気を配らず、髪、服などの全身が汚くてだらしないのです。変異した現代人の多くは人の外見からその人を判断することが多いので、このような様子で真相を伝えても、果たして効果はよいものでしょうか? 決して高価な服を買う必要もなく、清潔で整然としていればよいのです。最低限、常人に真相を伝えるときは、常人になぜ法輪功の人たちはこんなにだらしないのかと言われないように気をつけないといけないと思います。
他にも、大法弟子の家(特に女性の同修)はきれいに片づいていなければなりません。これらは些細なことですが、大法弟子の風貌を現しており、これらも規正すべきなのです。大法弟子とかかわりのあることすべてが、最も正しい状態であるべきで、法を正す時期の大法弟子であるゆえ、すべては目に見えるように簡単ではなく、些細なことであっても衆生済度と関わりがあり、またそれに影響を与える可能性があるのだと、私は悟りました。
私が住んでいる団地は、誰も掃除をする人がなく、子供たちは至る所にごみを投げ捨て、とても汚い状態でした。あまりにも汚いので、私が掃除をしました。ある日、仕事から帰って自転車を押して中を歩くと、また散乱しているごみを見て、つい愚痴がこぼれてきました。今の常人はあまりにも利己的だ、自分の目と鼻の先のものも片づけないなんて・・・。突然思い出したのですが、師父は私たちにどこにいても良い人になるようにおっしゃったではありませんか? この団地には大法弟子の私が住んでいるのに、こんなに汚れているとは、天上の神佛に笑いものにされるのではないでしょうか?
悟ればすぐ行動に移すべきです。翌日、私は団地内の庭をきれいに掃除しました。それ以来、ここの掃除は私の仕事となり、冬に雪が降っても私が除雪をしました。そのため、私は専用のほうきと除雪用のシャベルなど掃除道具一式を購入しました。今日に至るまで、6年間毎日、私がいる限り、わが団地の庭は汚れることはありませんでした。言うのは簡単ですが、あれだけ広い団地内ですから、毎日隅から隅まで掃除しようと思うと、最低でも1時間半はかかるのです。毎回一通り掃除が終わると、手首や腕は疲れて次の日になってもまだ痛むのです。それでも心の中は嬉しいのです。自分が何をやっているのかが分かっており、決して常人の良い人がここで良い事をやっているわけではなく、大法弟子が世間で法を圓容しており、このような方法で衆生を済度しているのです。
ある日、団地の庭で除雪をしていると、二階の窓が開き、60〜70代のお爺さんが感激した様子で私に手を振りながら言うのです。「いい人だ、いい人だ・・・あなたがあのうわさの阿蓮さんかい?」私は微笑みながらうなずきました。
私が住んでいるビルには教師が何人も住んでいますが、よく父兄達が生徒を連れて補習を受けに来るのです。ある日、リビングにいると外の階段を上りながら話す声が聞こえてくるのです。「わあ、ここの階段は本当にきれいですね、どうしてこんなにきれいなのですか?」下の階の小玉先生の声が聞こえてきました。「あなたたちは知らないと思いますが、これは全部、阿蓮さんがやっています。私たちの部屋の中よりきれいに掃除してくれているのです」。
ある日、近くに住む同修に路上で会いましたが、私を引き止めて言うのです。「大法弟子の行いの良し悪しって、本当に大事ですね、真相資料を配るより効果があるのです。この前、路上に人だかりができて暇話をしていましたので、近づいて聞いて見ると、その中の1人が『法輪功を学ぶ人は本当に良い人だわ、この団地の大きな庭は阿蓮さんがいつも掃除しているのよ』と言うと、もう1人が『法輪功を学ぶ人が何人も増えたらいいのにね』と話していましたよ」。
2005年頃のことですが、会社で旅行に行ったことがありました。借りた車が小さかったので席が足りず、通路に腰掛を置かざるを得ませんでした。私はわりと早めに車に乗ったので窓際の席に座れましたが、後から乗った人は通路の腰掛に座るしかありませんでしたが、中に受付の章おじいさんもいました。他の若者たちはおしゃべりをしながら、誰も席を譲りそうな気配を見せないのです。私は章おじいさんと席を替わりました。200kmの道のりを腰掛に座ったまま揺られました。修煉前の私には席を譲るなんて、とても無理なことでしたが、しかし今の私にとってその席を譲らないのは、腰掛に座るより心苦しいことなのです。
帰りはわざわざ早めに車に乗り、席を取ってまた章おじいさんに譲り、私はまた腰掛に座ったまま帰路につきました。往復400kmの道のりでしたが、私は疲れを感じませんでした。私にとって見れば、これはごく普通のことです。口に出していうと、多分誰も信じないでしょう。40も過ぎた人が1日中400kmも揺られても、体がかえって軽いのです。大法は本来、超常的なものなのです。
私の行ないが良かったため、会社の上司や同僚は皆大法のすばらしさを知っており、私に対して非常に尊敬してくれています。ある日、上司の1人が酒を飲んだ勢いで、興奮しながら部屋中の人に言うのです。「あなたたちもちょっとは阿蓮を見習いなさい、自分が損をしても文句一つ言わない。本当にすばらしい! 真善忍好(真善忍はすばらしい)!」その話声と共に部屋中の人が笑いました(普段は上司がみんなの前でこのようなことを言うなんてありえません)。みんなが笑うのを見た上司は、まじめな顔でもう一言加えました。「何がおかしいんだ、これは酒の力を借りて真言を吐く、ということさ」みんなの笑い声はより一層大きくなりました。
邪悪に迫害されているこの数年来、周りの人たちは力を尽くして私を守ってくれました。これは、善念がまだ残されている生命が真善忍を認め、渇望しているのだと私は認識しており、その中から私も大法の威厳の一面を感受しました。
業力だらけで心性が低く、淘汰に近づいた自分のような生命が、大法の中で浄化され、慈悲の光芒に光り輝き、師父と一緒に法を正す正念正覚の生命に精錬されたことを思うと、思わず涙が止まらないのです。「人間の事を操り盡し天上の苦に心を勞す」(『洪吟』の「高處不勝寒」) 師父に対し、そして新宇宙を生み出した圓容不滅である法に対し、無上の感激と崇敬がこみ上げてくるのです(人間の言葉は無力で、表現できる言葉が見つかりません)。
言いたい体得はまだまだたくさんありますが、ここまでにしたいと思います。ここに綴ったことは自分の修煉過程での一部の体得で、次元に限りがありますので、不適切なところは同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。
(明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)
2008年12月4日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/2/190807.html)
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