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『正しく人心を探し出すことは重要』を読んだ感想


文/中国大陸の大法弟子

 (明慧日本)『明慧週刊』355号に掲載された『正しく人心を探し出すことは重要』という文章で書かれた、「内に向かって探しても正しく探せない」という状況について、私の周りの同修にも見られることに気づきました。ある同修は三つのことをしていますが、体はずっと「病業」が出たままで、私もその中の一人です。旧勢力の妨害に対して、内に向かって探すことも分かり、毎回8〜10個ほどの執着を探し出し、正念を発して取り除こうとしましたが、無駄でした。旧勢力の妨害に対して、何もすることができなかったのです。今年の春に起きた小さなことから、私はやっと目覚め、正しく人心を探し出すことが重要だと分かりました。

 それは集団で法を学んだときのことでした。皆が順番に師父の『音楽と美術創作会での説法』を読んでいました。ある老年の同修は知っている字が少なく、普段あまり法を学んでいなかったので、文章にもならないほど全く読めませんでした。私は彼が何を読んでいるのか分からず、目を閉じて精神を集中し、一生懸命に聞いても分かりませんでした。他の同修たちは、半分目を閉じたり、眉をひそめたりしていました。その時、私はその老年同修に「ちょっと相談したいのですが、この説法は難しいので、とりあえずあなたは読まないで、他の人に読ませたらどうですか」と言いました。彼は承諾しました。その時の自分は自分の心を思い返しましたが、何も悪い考えはなかったと思いました。 

 しかしその夜、突然頭も歯も痛くなりました。それは昼寝をしなかったせいだと思い、寝たらすぐに良くなると思いました。しかし次の日は良くなるどころか、もっとひどくなってしまいました。心を静め、座禅をし、内に向かって悪い心を探しましたが、以前探し出した執着ばかりでした。正念を発した後も、歯はやはり痛かったのです。

 私は、同修甲の所へ交流に行きました。彼女は私に「内に向かって探しましたか」と聞きました。前の日のことを話したら、「その老年の同修に読ませなかったのは、あなたに顕示心理があったからです」と言われ、すぐ否定しました。すると、甲は「あなたの顕示心は当然のものとなるほど大きくて、自分では気づかなかったのでしょう」と言いました。私はやはり納得できませんでした。甲はまた他の角度から「もし、あなたは自分がその同修ほどよく読めないと思っていたら、止めなかったでしょう」と言いました。道理があると思い、黙っていたら、甲は「あなたは彼よりうまく読めると思ったので、彼を止めたのです。これはあなたの顕示心理です。同修に足りないところがある時、私たちは何をすべきですか」と聞きました。「黙々と補ってあげること」と私はすぐ答えました(法理においては分かりますが、行動にしませんでした)。甲は続いて「その時、助けてあげようと思いましたか? いいえ、しなかったのです。彼のせいで時間が無駄になるだけだと考え、他の人に読んでもらったら早く読め、自分ももっと多く法を学べると思ったのでしょう。これは私心ではないですか」と言いました。

 その時の私は本当にそう思いました。もう何も言うことがなくなりました。胸をえぐられるように辛かったのです! 同修甲は、また私に「もしこの執着が原因であれば、正念を発し、取り除いてみたらどう」と言ってくれました。私は家へ帰って、正念を発したところ、頭も歯も痛くなくなりました。ここで、同修甲に感謝します。彼女のおかげでどうやって内に向かって探したらいいか分かりました。

  それからの修煉においても、ときどき妨害がありますが、いつも正しく人心を探し出し、正念できれいに取り除けるのです。しかし、ひとつの大きな執着にはずっと気づきませんでした。去年あるところへ行きました。帰ってきてから、ずっと足が痛かったのです。最近またそこへ行きました。同修乙は私に「ここに残って、ひとつの小さな花(資料点)を咲かせたらどうですか?」と言いました。私は資料点を作ることをとても怖がっていました。視力が良くないと口実を作り、恐怖心を覆い隠し、たとえ自分はそこに残っていても、花を咲かせられないと言い、残るかどうか迷っていました。師父は夢の中で私に啓示してくださいました。夢の中で、同修乙は前方を指しながら、私に「3、4人を連れ、そのあたりの草を抜いてください。草抜きをしたことがありますか? できますか?」と言いました。指したところを見たら、草はありませんでした。代わりに人よりも高い乱れた草のような木だけでした。指先ぐらいの太さで、棘がついていました。私は「抜いたことはないし、抜きたくもない」と答えながら去りました。

 目が覚めてから、夢の中の「草を抜く」ということは、つまり資料点を設立することではないかと思っていました。「草は切れ味が良くて大きい刀で切らなければならない。刀で切るものはきっといいものではない。修煉者が取り除くのは執着心だから、『草』は私の執着心なのではないか」と思っていました。そして、去年のことを思い出しました。去年同じところに行ったときにも、同修乙は私にそこに残るように言いました。やはり恐怖心があったので、断りました。去年の「草」は、今年はすでに「草のような木」になってしまいました。夢の中で、同修は私に草を抜くように言ってくれたのに、自分がしたくないというのは、まさに今「小さな花を咲かせる」ことに対する自分の心性の現れではありませんか。それはいけないと思い、強い正念を発し、恐怖心を取り除かなければならないと思ったとたんに、胸の中がキラキラして透明になり、言葉では表せない美妙な感じがしました。「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』) 師父は私が本当の執着心を探し出したのをご覧になり、その瞬間に体の中の悪い物質を取ってくださったことが分かりました。師父は私をいつも加護してくださっているのです。

 これまでの修煉の道を振り返ってみると、人心が多く、大法弟子を迫害する機会をねらっていつも目を見張っている邪悪な生命に妨害されていました。どこが悪いかはっきり分からなかったので、きれいに取り除こうと思っても、効果はあまりなく、困惑していました。今の私はやっと、内に向かって探す方法が分かるようになりました。

 2008年12月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/24/190410.html