法を正すことに必要とされるものは修煉者の選択である(一) 文/ドイツの大法弟子
(明慧日本)一年半前、私はある偶然のチャンスで、大紀元の広告の宣伝の仕事にかかわるようになりました。その時、私はただ大紀元の同修が忙しかったので手伝いをしていただけでした。しかしその手伝いは一年半も続きました。これを通じて、私の修煉は大きく突破し、法に対する認識も向上しました。長い間私を困らせ、向上を阻む執着も次から次へと現れるようになりました。ひいては、私はずっと自分の長所で強みだと思っていたことが、実は自分の執着であったことに気づきました。
私には、一つ良くないところがあります。非常に頑固で、自分の観点を堅持したがり、いつも自分の観点に同意するよう人を説得したがります。話す内容もぶっきらぼうで、何事に会ってもすぐに結果を求めたがります。感情も影響を受けやすく、少しでも成果があるとすぐに喜び、少し困難に遭うとただちに前に進まなくなり、自信をなくしてしまいます。非常に自己中心的です。何事をするにしても人の気持ちを考慮せず、周囲の反応を見ませんでした。
また、長年の間、私はよく本を読んで研究をしていたため、あまり人とのコミュニケーションに長けておらず、いわゆる科学的な態度、科学的な視点をもって物事をはかりたがっていました。何事に対しても厳しく見ていました。厳しく試験し、その試験の結果を見ながら結論を出したがりました。私は売買に対して非常ににぶく、経済的なセンスがありませんでした。広告を宣伝するには顧客の反応を見なければなりません。客先の価格に対する受け入れ方、そして自分の戦略を随時変更したりして、柔軟に対応することが必要です。私のような人は、常人の中で営業をすることには向いていません。しかし、このような私が大紀元の営業スタッフの一員になってしまいました。
私はこれらの自分の特徴をもって大紀元の広告の仕事を始めました。想像通り、広告を取ることはどれほど大変だったことでしょう。最初、私は客先とどのように話せば良いか分かりませんでした。ある同修が私にこのように話せば良いと教えてくれ、それを紙に書きとめました。およそ2ヶ月の間、私は毎日この紙をもって客先に電話をかけました。もし紙に書いていないことを聞かれると、私はどのように答えて良いか分かりませんでした。
客先に手紙を書こうと思っても、取引先に魅力を感じさせることはできません。ある同修は、価格リストや契約書類などの文章を作るときに、まず私が見るようにと言いました。その理由は、私のような素人が見て分かれば、どの顧客が見ても絶対に分かるからということです。
営業に関して全く経験もなく、向いてなかった私は、何事にしてもまず人に教えてもらうことから始めました。他の同修はたくさんの広告を取ってきましたが、私は小さい広告しか取れませんでした。心の中では非常に不平等を感じていました。何年も努力して博士課程まで卒業したのに、まさかこのように毎日顧客に電話をして同じ言葉を繰り返し言うための努力だったのだろうか、と思いました。
これらの、私の見栄えを重んじる心に圧力がたくさんかかり、私の闘争心や完璧を求める心が打撃を受けました。一時、私はもうこれ以上営業の仕事はできない、と思いました。
これと同時に、私の法を実証する意思を打ち砕こうとしているかのように、旧勢力はさらに私の執着に対して攻めてきました。まさに私が広告の仕事を始めて2ヶ月目、私の娘に思いがけない事件が起きました。ある時期、娘に対する執着が毎日ナイフで刺されているかのように痛く、客先に電話をする気持ちが失せてしまいました。これらの全ての出来事、難関およびすべての執着が同時に、私に向けて圧力をかけてきました。旧勢力の目的は、まさに圧力をかけて私を台無しにすることです。
なんとかして、私の中にはまだ、最後まで頑張らなければならないという意志があったがゆえに、私は放棄せず乗り越えることができました。私は心の中で、黙々と師父に対して「問題ありません、師父、私にはできます。私は歩んでいけます」と話し、毎日私は自分自身に対して「大したことはない」と言い聞かせました。このようにして、私は毎日客先への電話を続けました。不思議なことに、電話をすると気持ちが良くなりました。
私は、もし自分は高い次元からおりてきて、かつて誓約を結んだことのある神ならば、法を正すこの最後の時期に、大紀元の広告を行うという形式をもって、師父が法を正されることを助けるという誓約を結んだならば、もし旧勢力が私の道を妨害し、誓約を実行することを妨害するならば、私のこれらの営業に向かない内面的特徴を押し付けたならば、もし私には能力がなく営業にはふさわしくないという理由をもって離れたならば、それはもはや旧勢力が按配した道を歩んでしまったのではないでしょうか。
私は、常人の中で能力があろうとなかろうと、正法があなたを必要としているとき、もはや自分ができるかどうかを考えるべきではなく、条件を考えてもいけません。個人の原因を、できるかどうかを選択する基準にしてはなりません。正法が必要としていることは修煉者が選択することです。人の中の能力と技量は、大法によって与えられたものであり、法を実証するどのプロジェクトにしても、責任者であるにせよ、協調人であるにせよ、いずれもこの環境の中に含まれ、自分の執着を取り除くべき要素があります。修煉者が大法のために何かをしているのではなく、師父が私たちにさまざまな機会と条件を作り出し、私たちが修煉でき、衆生を救い済度することができるように按配してくださったのです。
2008年12月7日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/12/3/190958.html)
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