日本明慧
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回帰の蓮(一)


文/中国大陸吉林省の大法弟子

(明慧日本)偉大なる師父にご挨拶申し上げます。世界中の大法弟子、こんにちは!

  本当に恥ずかしい話ですが、私は1996年に法を得た古い学習者とはいえ、修煉状態は良かったり悪かったりで、回り道をして、大法に損失をもたらしたこともあります。しかし、慈悲深い師父は見捨てることなく、再び救い上げてくださり、師父のご加護のおかげで、私はつまずきながら何とか今日まで歩んできました。私が修煉過程で体験した大法の素晴らしさ、師父の慈悲深さは本当に何日かけても言い尽くせません。ところが、今までずっと「うまく書けない、よく修めていない」という観念に妨害されて、書きたくなかったのです。後に明慧の同修の助けの下で、この観念を変え、やっとこの一歩を踏み出しました。以下、三つの部分に分けて、私のちょっとした会得を師父と同修の皆さんに報告させていただきます。

  一、新唐人テレビの受信機を取り付ける過程で向上する

  1、正念が出れば、奇跡が現れる

  私が2000年に北京へ大法を実証しに行った時、人心が多かったため、強制連行されて、回り道をしてしまい、本心に逆らう言論をテレビを通して報道され、大法に泥を塗ってしまいました。後で自宅に戻ってから、自分の間違いを意識し、改めて修煉し、法にもたらした損失を人一倍補うようにするという厳正声明を発表しました。

  2006年、地元での新唐人テレビの受信機を取り付けるプロジェクトに参加するよう、慈悲深い師父は段取りしてくださいました。1回目に取り付ける時、全然経験がなく、道具や部品を忘れたりしたため、1階から7階の屋上まで10回も往復しました。また当時は正念も強くなく、完全にそのことを仕事と見なしてしまったのです。最後の1回は、7階の屋上まで鉄梯子を上る途中、すっかり力が抜けてしまい、自分はすでに57歳の老人なのにと思ってしまい、この人心が動いたせいで、梯子から落ちるところでした。そこで、私はすぐ自分の人心に気づくようになり、「いや、私は法を正す時期の大法弟子だ。もう常人ではない。人を救い済度するために来たのだ。疲れるはずがない」と考えを変えたら、力がわいてきて、一気に屋上まで上ったのです。その後、取り付けが終わるまで足どりがずっと軽やかでした。師父はずっと私のそばにおられて守ってくださっておられると分かったのです。そこで、私はこれから必ず師父のご教示に従い、正念を強くして、順調に取り付けると心を決めました。

  ある時、セメント板で受信機の台座を固めようと思いましたが、同行の男性の同修はそのセメント板を運べないので、「おばちゃん、ちょっと手伝ってくれないか」と私に言いました。「いいよ。私はおばちゃんではない、神だ。『金剛排山』、よいしょ!」とそのセメント板を持ち上げたのです。それに、そのセメント板は全然重く感じなかったのです。実は我々は心に法があり、正念が強ければ、師父がすべてやってくださるのです。またある時、受信機の台座を固めるねじが壊れてしまいました。当時、予備の部品もないし、すでに暗くなって、買いにも行けませんでした。ちょうど6時の定刻の発正念の時間になったので、我々3人は手を止めて、落ち着いて正念を発してから、師父に助けていただくように心の中で願いました。そうすると、道具箱にねじを四つ見つけたのです。またある時、直径0.75mの受信機が直径0.6mの穴をむりやり突き抜いたため、受信機が変形してしまい、普通ならもう使えなくなるはずでした。しかし、大法は超常なもので、私は受信機に向かって、「あなたは衆生を救い済度するために来たのだ。直れ!」と正念を発してから、手で押したり、足で踏んだりして、元の形に戻らせてから取り付けてみると、何事もなく受信したのです。確かに正念が足りれば、できないことはないのです。

  2、同修を見下げる心を取り除く

 法を正す進展の加速にしたがって、取り付けを要望する人がますます多くなってきたので、取り付けをする同修も増えてきました。我々のグループにも40代の同修が入りました。彼は素直で熱心ですが、ちょっとそそっかしくて、いつも大きな声でしゃべっています。だから、私はいつも注意しています。しかし、注意をすればするほど、彼は間違いを犯してしまうのです。私は途方に暮れ、しまいには大声で責めてしまいました。ところが、彼は反論もせず、ただちょっと笑っただけでした。ある日、退勤後に私たちは受信機を取り付けに行きましたが、今度は7階の屋上への階段がなく、天井の出口の取手は地面から2メートルほど離れているので、私が跳ねても掴めないのです。途方に暮れているところへ、その同修はしゃがみながら、「姉さん、私の肩を踏んで掴んでみなさい、私が支えますから」と言ってくれました。「それはだめよ」と私はどうしても承知しませんでした。そうしたら、「服を汚したら後でまた洗えますから、暗くならないうちに早くやりましょう」と彼は言いました。簡単な一言ですが、私の恨む心や責める心、そして彼を見下げる心がそれによりすっかり溶けてしまい、自分のことをとても恥ずかしく思い、思わず涙がほろほろ流れました。なんと素晴らしい同修でしょう。憎しみも恨みもなく、無私無我で、ただ法を実証することだけを考えているのです。彼と比べて、私はなんとちっぽけなことでしょう。その日、私たちの仕事はとても順調でした。そのことを通して、私は自分の汚い心、同修を見下げる心を見つけました。実は別に同修が悪いのではなく、自分が宇宙の特性とねじれたのです。そこで、私はこの心を取り除くことを決心しました。

  3、得失の中で衆生を救い済度することを最優先に置く

  受信機を取り付ける過程には楽しい経験もあれば、辛い経験もありますが、お客さんが満足に思いさえすれば、いくら苦しくても疲れても、我々は嬉しく思っています。しかし、トラブルが激しい場合もあります。例えば、ある時、同修の紹介してくれたお客さんは新唐人のテレビ番組も見たがるし、他の海外のテレビ番組も見たがるので、受信機を二つ取り付けなければなりません。しかし、紹介した同修はお客さんにこのような場合は料金を多く支払わなければならないと言うことをはっきり説明しなかったため、私たちは一つ目の受信機を取り付けたら、お客は番組が少ないと言って、コストの半分にも足りない料金しか支払おうとしなかったのです(その日ちょうどそのお客さんはお酒を飲んでいた)。

  もう取り付けはできないと同修が言うと、そのお客さんも怒ってしまい、「じゃ、取り付けた受信機をもうはずしてくれ」と言い返してきたのです。そこで、この問題について、我々何人かの同修は集まって交流しました。その結果、「受信機は絶対に外してはいけない。我々は衆生を救い済度するために来たのだ。それは師父がしておられることなのだ。旧勢力に隙に付け入られてはいけない」と合意しました。そこで、このことに対して、妨害する要素を解体するように集団で正念を発してから、1人の同修はそのお客に「料金を支払わなくても良いので、取り敢えず二つの受信機を取り付けておいて、しばらく見てみてから、また決めましょうか。やはりどうしてもよくないと思えば、その時に外しても良いですから」と相談してみました。私たちは本当に心を放下したら、翌日そのお客さんは料金を支払ってくれたのです。またお詫びにご馳走したいと言ってくれましたが、我々は断りました。このことを通して、我々は全体として認識が高まりました。つまり、表面上トラブルがいくら激しくて複雑に見えても、師父の要求されたとおり、人心を放下し、ただ人を救い済度することだけを思うようにすれば、本当に「柳暗(リュウアン) 花明(ファミン) 又(ヨォ) 一村(イーチュウン)」というように、眼前に新たな世界が開けるのです。

  受信機を取り付けてきたこの2年間を振り返ってみれば、最初は人に知られるのを怖がっていましたが、だんだん正々堂々としてきて、理知的に受信機の取り付けを広めるようになってきました。たとえ邪悪が受信機を外すという圧力の下でも、止むことはなく、恐れる心をだんだん取り除き、正念がますます強くなってきたのです。もちろん我々に不足もあります。それは「新唐人」はただ取りつけるばかりで、全く支払おうとしないことです。「新唐人」に正念で加持することなく、「欧州衛星事件」が起きてから1カ月経っても、私たちはまだ無頓着で、傍観しており、それは海外の大法弟子のことだと勘違いして、衆生を救い済度することに損失をもたらしてしまったのです。師父は『二〇〇八年ニューヨーク法会での説法』の中で「以前にも話したことがありますが、中共邪党は何もしなければ、邪党にとって厄介なことはまだ少ないのですが、特に大法弟子に対して何かの悪事を働けば、それはきっと邪党自身の醜さや失策になり、同時に結果的に大法弟子に手伝って事を成功させています」とおっしゃいました。だから、我々は「欧州衛星事件」をきっかけに、真相を伝え、衆生を救い済度し、妨害するすべての要素を解体し、新唐人テレビ局が堂々と世界各地で放送することができるようにしなければならないと思います。

 (続く)

 (明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)

 2008年12月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/24/190162.html