法を実証する中で自分を修める
文/ベルギーの大法弟子
(明慧日本)2007年の年末、私は神韻のベルギー公演のためのチケット販売活動に参加しました。それは忘れられない修煉経歴でした。神韻のチケット販売の仕事をしっかり行うには、自分の執着を必ず捨て、神韻公演の重要性と意義について、深い理解を持っていることが必要であるということを、私は悟りました。それで初めて、私たちは純粋な心で神韻を世の人々に薦めることができ、私たちが発する言葉にも力を帯びることができるのです。
このことにおいて私には深い体得があります。初めてチケットの宣伝に出た時はとてもどきどきして不安でした。皆の目線が天女の格好をしている私たち3人に集中しているので、不自然に感じました。一方、私は目立つのが嫌で、恐れる心もあり、知り合いの人に私がこのような派手な衣装を着ていることを見られるのを恐れていました。当時私の頭の中ではいろいろな考えが浮かび上がり、心を鎮めて神韻を紹介することが出来ませんでした。2007年2月にニューヨークのチケット販売に出たときに比べると、このような不安定な心理状態は強烈な比較となります。その時はこのように強い人心は意識できるほどではありませんでした。なぜならニューヨークではあちこちで天女の姿をした修煉者の人達を見られたので、自分がそんなに目立つことはなかったからです。このことを通じて私は、心の中に隠れている執着心が、小さかれ大きかれ、いつかは何らかの方式で暴露され、そのような方法で私たちにそれを放棄させているのだということを悟りました。
家に帰り、私は昼間の自分の行動を後悔しました。神韻のチケット宣伝をよく行うには、まず人心をなくすことだと悟りました。私は師父の「2007年ニューヨーク法会での説法」を読みました。師父はこのようにおっしゃっています。「劇場から出てきた人は、大法弟子に対する態度がほぼ百パーセント変わったのです。法輪功に対する態度も変わりました。人間の念が動じれば、その人が残されるかどうかを決めることになります」師父のこの言葉は私の中に深く印象付けられました。私は突然公演の重要性について認識しました。「法を正すスピードがこんなに速くなり、衆生に残されている自分の未来を選択できる時間と機会がどれくらいあるのか? 我々大法弟子が自己を修煉できる機会はどれほど残されているのか?」と、私は自分自身に問いかけてみました。
神韻が衆生済度に果たす作用がいかほどであるかを銘記し、チケット販売は修煉の一部であることを認識してから、私は自分の目の前に現れたすべての機会を大事にするようになりました。それ以降、天候がいかに悪くても、私は尻込みすることはありませんでした。私は、何度か自分が完全に大法弟子のあるべき状態の慈悲心に包まれたとき、往来する衆生を見るだけで涙が出そうになったことがありました。心の中では彼らに呼びかけていました。「偉大で慈悲なる師父があなたたちを救おうとしておられます。この貴重な機会を逃さないで・・未来は大法により創造され、あなたたちはこの機会をつかんで真相を理解しなければ、どうやって未来に入ることができるのですか?」私は神韻を彼らに紹介し始めました。多くの人々が徐々に関心を寄せ始め、公演の詳細な情報を聞いてくるのでした。
ブリュッセルで、神韻のチラシを配っていた時のことです。当時は許可がありませんでしたが、私たち数人は警察に阻止されないだろうと信じていました。そのストリートには人が多く、6、7人の警官が常に治安のために巡回していました。あるとき、1人の警官が私の前で立ち止まったのです。私は一瞬驚きましたが、自分に言い聞かせました。「私たちは有意義なことをしているのだ、彼は私を妨害してはならない」と・・すると、その警官は微笑みながら私に言うのです。「チラシ一枚もらえますか?」私は興奮し、また驚きました。そして私は反省しました。「私が間違っていました。彼は何度も私の前を通りすぎたのに、チラシを渡していないばかりか、ほかの衆生と区別していました。警察も一つの職業に過ぎません。彼も救われるべき衆生なのです。師父はすべての人にチャンスを与えるとおっしゃったのではないですか。警察は怖いという私の後天的な観念により、彼を救う機会を逃すところでした」私は自分のこの面での弱点は必ず直さないといけないことに気がつきました。衆生に対しては平等に扱い、彼らが如何なる階層に属する人であれ、みんなにチャンスを与えるべきなのです。
チケット販売を通じて、私は骨身に染み込んでいた利己的な要素を捨てることができました。もっとも深い体得があったのは、やはり、チケット販売において反映された全体の力でした。同修が苦労も顧みず、長期に亘って深夜に私たちを劇場から家まで送るとき、同修が一緒に座って発正念で邪悪の妨害を取り除いているとき、大法弟子一人ひとりがみんな神韻のために奉仕しているのを見たとき、私は法の力がみんなを難攻不落の一つの全体に形成させたと感じました。大法弟子だけがこのような無私無我の全体を形成することができるのです。
深夜に、何度も神韻報道の翻訳をやっているとき、突然全身に熱流が走るのを感じたことがありました。これは師父の私に対する励ましでご加持であることを私は知っていました。もっと多くの機会をつかんで人々に神韻の情報を伝えるべきでした。たとえば、電車に乗るときも私は随時縁のある人に会うことがあるのです。
数カ月前、私は2009年の神韻ベルギー公演のチケット販売活動に参加しましたが、去年私の紹介で公演を見た2人の女性にまたお会いしました。私を見ると大変喜び、「公演は本当にすばらしかった、本当に美しかった。来年も見に行きたいわ」と興奮して言いました。2人の表情を表す適切な言葉が私には見つかりませんでした。彼女らのあの興奮ぶりは神韻の美しさを見たからだけではなく、生命の覚醒した一面からの喜びであると、私には強烈に伝わりました。私も彼女らのためにうれしく思いました。
次は、私が最近経験した試練について皆さんと交流したいと思います。時間の関係で事件が発生した経過を省略したいと思いますが、私の思想が事件の過程で変化したことと、この試練が私の最近の修煉状態に及ぼした影響について、皆さんと交流したいと思います。
長期に亘って、私は学法を重要視していなかったので、その結果人心が非常に強くなりました。最近のこの試練は私に深刻な教訓を残してくれました。
9月に、私はビザの延長のために健康証明書を取る必要がありました。病院で検査を受ける通知を受け取り、私は不安になりました。当時すぐに人心が飛び出てきました。修煉前の肺病と肝臓病がまだ治っていなかったらどうしよう、それではビザを延長してもらえないと考えていました。更にひどいことに、当時私の身体には虚弱な虚像が現れ、このような恐れる心に拍車をかけました。甚だしきに至っては、私は他の国から来た同僚に彼らの身体検査の状況を聞いたりもしました。みんなはとても簡単で、医者は聞いただけで詳しい検査はなかったと教えてくれました。そして私は恐る恐る病院にいきました。予想外にも、医者は私に全面検査をしなさいというのです。常人よりも面倒なことに出会ったのは私自身の心が正しくなかったからであると、私はすぐ意識しました。自分自身を大法弟子とみなしておらず、これが師父と法に対する「信」への試練であること認識していなかったからでした。結果邪悪に隙に乗じられ、「私の病気はまだ治っていない、私はこの難関を越えられない」などの不正な思想を注ぎ込んでしまったのでした。
大法弟子としてこのような考えを持つことはいけないことで、正念で排除するべきであることは知っていました。連続数日間、私はこれらの思想と闘いながら、それが積もるのを恐れ、その結果無意識のうちにまた新たな恐れる心が表れたのでした。このような終わりのない闘いで私は疲れ果て、最悪なことに私のビザの期限がすぐそこまで来てしまいました。
まさにその肝要なとき、同修らが法理上で向上するよう導いてくれ、学法の重要性を強調しました。このことを通じて私は、正念は法から生まれ、師と法に対して信じる程度も、法に対する理解の基に立てられるものであることを認識しました。師父は「2008年ニューヨーク法会での説法」でこのようにおっしゃっています。「特に迫害に遭ってからのこの数年間、皆さんが行なった法を実証することの中で、どのような具体的なことに遭っても、皆さんに教えたことがありますが、それはいずれも良いことで、それはあなたが修煉したから現れたことです。あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです。」
師父の法、同修の励ましによって、私の思想が徹底的に変わりました。これらの悪い思想が決して私ではないことをはっきり認識しました。これらの悪い思想を本当の自分から分離させ、強大な正念の下、私は心を鎮めることができ、恐れる心も一気に消えました。私が思想を規正したその翌日、つまりビザの期限の最終日、私は健康検査に行きましたが、すべてが正常でした。他の手続きも順調に終わりました。
この過程において、私は法の力と師父の慈悲深さを感受しました。同時に同修の関心は私に全体の力の強さを体得させてくれました。
このことのおかげで、私は今のこの修煉環境を大事にするようになりました。私は学法、煉功、発正念の重要性を体得し、悟りました。私は毎日の全世界同時発正念と煉功、学法を堅持しております。私は師父の説法を時間順をたどって読み始めました。師父も私に多くの法理を見せてくださいました。毎日の睡眠時間は短いのですが、私は返って精力的になり、正念も大部強くなりました。以前の自分がこの偉大な法を大事にしていなかったことに遺憾を感じています。私はよく師父に言います。「弟子は師父と一緒に家に帰ります、私はここには居たくはありません。ここは私の家ではありません。弟子は必ず精進して修煉の道をしっかり歩みます。」
以上は私の修煉体験のわずかな一部分です。不当なところは慈悲なるご指摘をお願いします。師父ありがとうございます。皆さんありがとうございます。
(2008年欧州法会の発言原稿)
2008年12月10日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/4/190960.html)
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