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神韻公演を準備する過程での修煉体得(二)


文/オランダの大法弟子

(明慧日本)

 神韻公演の2日間、自分が多方面にわたって忍ができたと思っていましたが、実はこの全ては大局に心を配る常人の忍に過ぎず、直ちに師父の法に照らして自分を量り、深く内に向かって探し、率直に自分の執着心を取り除いてはいなかったのです。そのため一種の心身ともに疲労する良くない状態の中から抜け出すことができず、結局、逃避を選択してしまいました。

 その後、師父は『精進要旨』「忍とは何か」の中で、「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことが生じることなく、不平に思わないことこそが修煉者の忍なのです」と説かれたことを思いました。

 今の私は恥ずかしく思うばかりです。修煉の道筋にいながら、いつも自分が本当の修煉者である自覚がなく、修煉者としての基準で自分を要求していないため、結果として数年来の修煉は依然として常人の忍次元に停滞しています。

 多く法を学び、自己を捨てて、矛盾の前に厳格で無条件に内に向って探すことによって、はじめて自分の執着を探し当てることができるのです。探し出せないのは自分の内に向かって探すことがまだ足りないためです。自分の心理状態を純浄にし、他人の長所をよく見て、自分の心は真っ直ぐになり、次第に忍の境地がさらに高まることができ、さらに寛容な度量で同修たちと協力し合うことできます。

 師父は1998年「ヨーロッパ法会での講法」の中で、「ですから、いざこざが起きたときに、各自は内に向かって自分の原因を探さなければなりません。この事はあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください:あなたに責任があるかどうかに関わらずあなたは自分を探すべきです。必ず問題が見つかります。もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません」と説かれました。

 私は家の中の末子で、環境がゆったりしていて、安逸する心が強く、幼い時からずっと他人を配慮することが分かりませんでした。公演の準備作業の期間中に、多くのことを全体の角度から考慮することはありませんでした、例えば遠路から協力しに来た同修の宿泊の問題について、私は積極的に手配していなかったので、その結果、一部の同修に不便をもたらしました。同修たちの慈悲と善意の指摘により、自分が必ず旧宇宙の「私」から抜け出さなければならず、「無私無我、他人を先に自分を後に」の基準で自分に要求しなければならないと理解できました。今後、万事はすべて先に他人のために考えて、自分の事に執着することをしてはいけません。

 公演日、一部の同修は会場へ着くとすぐ自発的に何かすることはないかと尋ねます。彼らは協調人の分配した仕事を黙々とまじめにして、いかなる不平もなく、とても素早く片付けてしまいます。その時、同修たちの無私な献上と寛容で無条件の協力は、全体の力の強大さは旧勢力のすべての間隔を取り除くことができ、みんなに心を一つにして共に大法を実証し、衆生済度の使命を完成させることを深く体得させられました。

 いつも同修たちに会うと交流する機会があるため、みんなが神韻のオランダ公演は師父の私たちに対する最大の誉れであり、オランダの衆生の幸せだと認識することができました。最後にすべての同修がこの永久の機縁を大切にして、時間を切り詰めて三つのことをしっかりと行い、私たち大法弟子の調和と慈悲の場の中で、きっと法を実証する各プロジェクトをしっかりと行い、さらに多くの縁のある人を救う済度することができると信じています。

 師父に御礼申し上げます。同修の皆さん、ありがとうございます。

 (完)

 (2008年ヨーロッパ法会での体験発表)

 2008年12月11日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/12/3/190959.html