日本明慧
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神と人間との関係を正しく扱う

——人間から脱出する


文/河北省の大法弟子

 (明慧日本)法を正す時期の大法弟子として、私たちは人間として一体どのような関係におかれているのでしょうか? この社会、この環境とはどのような関係にあるのでしょうか? 今日まで歩んで来た大法弟子として、私たちはこれらの関係を正しく扱い、自分たちが背負っている責任と使命を明確にし、人間から脱出しなければなりません。この問題について、私個人の浅い認識ですが、述べてみたいと思います。不当なところは、慈悲なるご指摘をお願いします。

 『洪吟』「威徳」・「世間には大羅漢 神鬼を懼れしむるに十分なり」、『洪吟 二』「怕口舎(しゃをおそれる)」・「神世に在りて法を証実す」。師父はすでに明確に私たちに教えてくださいました。私たちは神であり、人間の中の神であります。しかし、往々にして、多くの時、私たちは自分が神である意識がなく、或いは自分は神であるという意識を常に持っているのではなく、多くの問題において人間の中に陥ってしまうのです。神であるならば、神は果たしてどのようにこの世界を見ているのでしょうか?

 神の目には、人間は所詮人間であり、せいぜい良い人と悪い人に分けられるだけで、良し悪しの根拠はその人の心性の高さであり、それは高級生命から見ると一目瞭然です。しかし、人間が思っている美と醜、高と低、善と悪、貴と賎、聡明と愚昧など、神のところにはこれらの概念はないのです。

 それでは法を正す時期の大法弟子として、私たちと人間の関係はどのようなものなのでしょうか? 答えは簡単です。本質的に言うと救い済度する側と救われる側との関係です。親戚、両親、夫婦、子供、友人、敵などの概念は人と人との関係であり、大法弟子と人との関係ではありません。表面上は私たちもこれらの関係を維持していますが、しかし、私たちの内心にはこのような概念はあってはならないのです。これらは人間の情の表れであり、法が人間社会を正した後、大法弟子が圓満帰位した時には、私たちは人間と何の関係もなくなるのです。私たちは人間から脱出するなどの言葉をよく口にしますが、しかし、多くの時、私たちはまだ人間の中にいるのです。簡単に言うと、衆生を済度し、法を実証する心と念以外の、如何なる念を動かしてもその時には、すでに人間の中に陥っているのです。

 三界は法を正すために造られたのであり、俗世の中の身の回りのすべて、私たちの衣食住や交通手段の関連したすべての物体、すべての生存方式は法のためにきたのです。住宅、交通機関、通信設備、食品などのすべての物品がそうであり、企業を経営すること、仕事をすること、アルバイトをすることなどの生活方式も、根本的に言えば法のためにきたのです。この筋道に従うと、容易に想像できることです。私たちと人間が済度と被済度の関係にある以上、私たちと周囲の環境、この社会とはどのような関係なのでしょうか? 師父は法の中で明確に教えてくださいました。それは「善用する」ことなのです。

 人類社会の存続は、実は一幕の大がかりな芝居の上演に過ぎず、この芝居は天を幕とし、地を舞台とし、主題は法を実証し、衆生を救い済度することなのです。いかにしてこの芝居をうまく演じ切り、法を実証するかにより、法を正す時期の大法弟子の理性、知恵及び慈悲を体現することができ、またその中で大法弟子の偉大な果位と威徳を成就させているのです。

  2008年12月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/8/191261.html