内に向かって探す心理状態を保つ
文/台湾の大法弟子
(明慧日本)私は大法を修煉してすでに1年余りが経ち、心身共にとても大きな変化が起きました。いまだに数多くの執着心が湧き出てきたりしますが、自分自身では、ますます淡白になっているのに気が付いています。修煉するにあたって、関をうまく乗り越えた時、私は歓喜心と顕示心が生じやすく、身の回りの家族や、友人、あるいは同僚に対して修煉者の基準、あるいは師父の説かれた話でもって、彼らに要求します。たとえ口では言えなくても、心中で彼らの持っている執着心により現れた行為を見下します。また第三者の立場から、彼らの行為をみて、自分は大法弟子であることをひそかに喜びます。
これらの現れは「真・善・忍」からどれほどかけ離れているのでしょうか? しかし、私は往々にしてこのような状態に陥ったとき、自分では分かりません。身の回りの人があなたはよく変わったと思う代わりに、孤高になったと思います。後になって私は悟りましたが、たとえ修煉していない常人であっても、彼らの持っている一部の優れたところを私は持っていません。それらは私がまだよく修煉できてない部分であり、したがって顕示心の現れなのです。自分は心性がとても高く、ほかの人より問題点をはっきり見極められると思うとき、このような言動は知らないうちに身辺の人を傷つけてしまいます。彼らが感じ取ったのは、大法の素晴らしさではなく、ただ私がいっそう人を批判することを好んでいるということでした。幸いにも、師父の悟らせの下で、私はこの問題について認識した後、すぐに直し、このような誤った状態が長くならないようにさせ、自分の犯した間違いが大法にもたらす損失を減らしました。
精進し続けるには、内に向かって探す心理状態を保たなければならない、自分はとてもよく修煉できたと感じ、自慢しはじめ、自分が多くのことを淡々と見られると思い、大法の仕事にはとても積極的に参与し、とても高い境地に達していると思ってはいけないことを悟りました。
修煉には次元があります。極まる真、極まる善、極まる忍の境地とは何でしょうか? もし私たちが修煉中、一層一層向上した後でも、また更に高い基準が絶対存在するのです。私が思うには、どれほど長く修煉したにしても、永遠に無条件に内に向かって探して、始めてやっと更に高い境地まで昇華することができると思います。身辺にいる人に接する態度も、修煉を通じてもたらされた自然状態なのです。良くない執着心を取り除いたとき、彼らはおのずと大法のすばらしさを感じ取ることができ、おのずと大法を証明する作用が働きます。自分が口で言うよりもっと効果があり、しかも更に人々に内心から受け取れるようにさせます。常人に対するときも同じです。私たちは必ず修煉して現れた善と慈悲を持って、彼らに対処するべきです。常人と付き合うとき、もし、心中で「彼らはどうして自分を修めないのだろう? どうしてこれほど迷いの中に落ちているのか? どうしてこの宇宙の理を見抜けないのか? とても執着しておかしいほどだ」と考えるなら、私自身でもこれは顕示心がまた働いているといえます。常人に顕示しているのです。
一部のことは、自分では本当に悟れず、或いは長い時間をかけてやっと悟れます、ですから常に明慧ネットに掲載された、同修が書いた文章を読み、自分の不足なところを探し出すのはとてもよい方法です。その中には師父から悟らせてもらったものもあります。心を静めて読みさえすれば、また自分自身に向かって探しさえすれば、現在、自分に不足した部分が分かるようになります。
2008年12月16日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/15/191596.html)
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