日本明慧
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病業を乗り越えた体験(二)


文/河北省唐山市の大法弟子

(明慧日本) 

 一念の違いによる教訓

 2006年1月の初め頃、私は自転車で市場に買い物に行きました。団地のドアを出るとすぐ大きな道路で、私は車と人がいないのを確認してから道を横断しました。半分ほど渡った時、突然一台の乗用車が私の自転車の荷台に衝突し、私は反対側に止まっていた車のそばに投げつけられました。その車は衝撃で音を立て、私の肩はその車に寄りかかり、尻は地面につき、身体は斜めになっていました。これは旧勢力とその黒い手、腐った鬼らが私を迫害しようとしていると認識しました。当時、私は全く怖くありませんでした。事故を起こした乗用車の運転手は気が動転して、私を起こしながら言いました。「おばさん、病院に行きましょう」、「怖がらなくてもいいよ。私は法輪大法を修煉しているから大丈夫よ」と私が言うと、彼も賢い人で、すぐ「法輪大法好、本当に何事もなければ私もあなたと一緒に法輪功を習います」と言うのでした。私は「何も起きないわよ」と言いました。彼は、私がまっすぐ立てないのを見て、車を寄せてきて、私を乗せて病院に行こうとしました。彼の車の中はお正月用のお土産でいっぱいでした。私は彼に真相を伝え始めました。初めは息が切れて話をするのもやっとでしたが、約30分後、彼も邪悪な青年団組織から脱退を表明しました。師父のご加護の下、私の体も調整され回復し、別れるとき彼は私の電話番号を残しました。

 家に帰り、座禅を30分くらいしていると、また師父が私のために難を受けてくださったことが分かり、涙が止まりませんでした。晩御飯もあまり食べず、ベッドにあがるのも苦痛にしている私を見て、主人がわけを聞きました。まだ修煉者ではない家族は理解できないかもしれないので、私は何も言いませんでした。翌日は主人が休みのため主人の実家に帰る予定でした。目的はもちろん真相を伝えるためでした。主人は私に実家に行けるかどうか聞きました。私は何があっても真相を伝えることを最優先にし、この機会を逃すまい、絶対に行くと決心しました。主人は車の乗り降りを手伝ってくれると言いましたが、私は何も問題ないと思いました。主人の実家はそんなには遠くありませんが、乗換えがあり、車内には数人の乗客がいましたので、主人は私に後ろの席を取ってくれました。路面はでこぼこしており、車は非常に揺れ、座っている席も堅い板だったので、これは私の背骨に不利だと思いました。この間違った一念で、人間の観念が生じ、その結果、状態が思わしくなく、もちろん予定していた効果もありませんでした。家に帰り、二日間横になったまま動けませんでした。毎日あまり食べなくてもお腹がすくことも、のどが渇くこともなく、トイレに行くこともなかったので、寝る以外はひたすら正念を発しました。師父はこの情けない弟子に静養する時間を与えてくださったと思います。もしあの時、私が車のゆれで背骨が正されると思っていたら、本当に何の問題も起きなかったと思います。いかなることにおいても、偶然は存在しないからです。「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある。」(『転法輪』)

 旧暦正月の二日目に親戚が集まったとき、私は彼らに告げました。「私がもし法輪大法を学んでいなければ、今日ここに座ってみんなと会うことはなかったでしょう。」車両保険会社に務めている甥が言いました。「おばさん、車で人をはねると最低でも二桁は要るよ。」病院の放射課に務めている甥は、「レントゲンも撮らないで、電話番号も残さないなんて、おばさんは本当に大善人だね」と言いました。「師父は私たちにそのように教えているのよ。私だけでなく、法輪功を修煉する人はこのような問題に遭遇したとき、同じように対処するのよ」と私は教えました。 

 今年の7月下旬、私の腰痛はまだ進んでいました。私は正念を発しながら、黒いものが私から遠ざかっていくのが見えました。まだ去っていないものもいましたが、それらは何の効果も発揮できず、除去されつつありました。しかし、腰は相変わらず痛み、動けないのでした。私は困惑しました。また身体中が燃えるように熱く感じたりするときもあり、とても苦しく、ほとんど何も食べず飲まずの状態でした。ベッドに横になり、苦しんでいました。二時間も努力したのに無駄なのか、死んだほうがましかもしれない、という念が突然現れました。しかしもう一つの念も現れました。このまま死んでしまうと大法に泥を塗ることになり、それは犯罪である。また師父の慈悲なる苦しい済度への冒涜です。生きているからこそ修煉ができ、法を実証することができる。この一つの考え、一つの念がどれほど大事なものでしょうか。どうして私は邪悪に隙を乗じられたでしょうか。内に向かって探しました。たくさんの不足が見つかりました。長い間、学法の面において精進しておらず、発正念もしっかり行わず、度々現れるのはほとんど人間の観念と執着で、法の要求通り行いませんでした。学法をしっかり行っていなかったため、問題に遭遇すると法ではかることができず、また心の中には自分の行動を指導する法がなく、業力が重なり、大きな難に変わってしまったのでした。堅実な法の後盾がないので、魔難が来たときはすぐ弱まり、そうすると魔が来て隙に乗じるのです。

 学法がしっかりできていなかったので、一つ一つの難を乗り越えるのがとても難しかったのでした。精進している同修は1〜2日で超えられるのに比べ、私は一ヶ月、二ヶ月と時間がかかり、これは本当に大きな教訓でした。ここに書き出して、他の同修の参考になれば幸いです。

 (完)

 2008年12月17日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/12/12/190988.html