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吉林省:朝鮮族の法輪功修煉者が迫害されて死亡(写真) (明慧日本)2008年12月13日、過去何回も残酷な迫害を受けて、身体が深刻に痛手を受けた吉林省延吉市朝陽川市(もとの竜井市)の朝鮮族の法輪功修煉者・金俊傑さんは、冤罪が晴れないままこの世を去った、享年35歳。金俊傑さんは2回の労働教養処分4年を強いられた。1回目は母に背負って貰って帰り、2回目は手錠をはめられたまま出てきて、頭には血痕があった。
金俊傑さん(35歳男性)は、延辺大学を卒業後、吉林省教育委員会の国際交流センターに勤めていた。1999年7月22日、中国共産党が法輪大法を迫害した始めてから、金俊傑さんは吉林省委員会へ陳情に行き、悪党にコントロールされる公安警官に長春市警官養成学校に拘禁され、さらに、二道支局に不法に事情聴取されたときに拷問された。いわゆる「蘇秦背剣」(両手の一つを上、一つを下にし、背中で手錠を掛け、更に手錠と背中の間に硬い物を詰め込む拷問)を強いられて大広留置場に移送されて15日間不法に拘留された。 1999年10月14日、金俊傑さんは北京へ陳情に行き、悪党の人員に連行されて、長春で拘禁され、1年間の労働教養処分をされた。奮進労働教養所は各種の手段を使っていわゆる「転向」を施した。10人を並べて、さらに1つの長さが2メートル、幅六センチ、高さ1メートルの腰掛けに無理やり座らせ、両足が地面から離れるようにした。悪辣な警官はこの刑具を「木馬乗り」と呼んだ。これは本当に残虐な拷問であり、その苦しみは言葉では言えないほどつらく、尻が潰れてしまうのである。 金俊傑さんは労働教養所で7カ月間刑期を延長されて迫害されてから、 2001年3月に朝陽溝労働教養所に移送された。悪辣な警官らは8番サイズのワイヤで棒を作って(およそ小指の太さ)、金俊傑さんを押し倒して伏せさせ、首から足までをその棒で打った。また食事をする前に、受刑者が彼の腹をけり、金さんは吐き気がして食事が摂れなくなってしまい、金俊傑さんは苦しめられて40キロにまで痩せこけた。5月18日から、2大隊の悪辣な警官は受刑者の李付臣に指図して、毎日7時から李付臣が藤つるを使って金俊傑さんをめった打ちしたので、金さんの手足は饅頭のように腫れて黒くなった。 金俊傑さんは食堂まで歩けなくなり、夜はベッドから降りられなくなった。2大隊の警官は彼が死んでしまうことを恐れて、留置場に報告した。司法局のある課長が様子をみて労働教養の解除を許可した。2001年の6、7月期間、金俊傑さんはお母さんに背負ってもらって家に帰った。 2001年9月、金俊傑さんは家の中で再び警察に連行されて竜井留置場に拘禁され、15日後不法に労働教養処分2年を言い渡された。延吉労働教養所に移送されてから2、3カ月後に、九台飲馬河労働教養所に移送されて、不法に2年8カ月間拘禁された。その間無残な苦しみを強いられ、長期に亘って独房に閉じ込められた。 不法な延期監禁の間に、中共の悪人らは強硬に彼を「転向」させようとして、拇印を強制した。金俊傑さんは絶食して抗議したため、独房に監禁されて、毎日潅食の苦しみを強いられた。監獄の医者の王は金俊傑さんの四肢を縛って、強行に濃い塩水を流し、金さんに酷くのどを渇かせ、さらに水を飲ませた。このため身体に深刻な損害をもたらした。2004年5月、金俊傑さんは家族に迎えられて帰った。 2007年の夏、金俊傑さんは身体が息苦しくなり、息が続かず、やつれて、吐血症状が現れ、体重が30キロ余りになり、病院の検査によると肺結核と診断された。肺部に広範囲の結核の空洞があり、2008年12月13日に金俊傑さんは亡くなった。 2008年12月19日 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/16/191699.html) (英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/12/18/103088.html) |
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