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法を実証する中で昇華する(上)(二)


文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)

  二、法を得た生命である以上、大法を守るのは当然である

  1999年4月24日、邪悪が大法弟子を迫害しようとして、「天津事件」を起しました。このことを聞いて、我々輔導站の站長、輔導員が集まって交流会を開き、一緒に『精進要旨』の中の「白日の下にさらけ出す」などの経文を学びました。この事件について、私たちはこのように悟りました。つまり、この事件は正に弟子に対して、真に修めるかどうかに対する試練であり、真に修める弟子なら、表に出て大法を守らなければなりません。翌日の4月25日、私は20数人の同修と北京へ陳情に行くことに決めました。出発する前に心の中では2人の自分が激しく戦いましたが、師父のおっしゃった「わたしたちのすべてのスタッフはまず心性が高く、着実に修煉する人、心性を修める模範であって、常人のような指導はいらないのである」(『精進要旨』「仕事ではなく修煉である」)を思い出すと、法を守るのも模範になるべきではないか、法のために来た生命にはまた他の選択肢があるだろうかと自問し、行く意志を固めました。4月25日の夜中我々は北京に着きました。遅れたとはいえ、やはり初めて法を実証することを体験しました。地元に戻ってから、我々は警察に呼ばれました。そこで、我々は陳情に行く原因と目的、大法を修煉してからの事例、それから一部の下心のある人がトラブルを起こしたことをありのままに彼らに伝えました。すると、彼らは「天津は天津で、我々はそのようなことをしません。実はあなたたちのことを何度も調べたのですが、法輪功を修煉する人は確かに皆よい人なのです」と言いました。

  北京から戻ってから、法を広める大規模な催しを許してくれないなど、我々の修煉環境も地元の公安部門によって妨害されるようになりました。妨害されるたびに、我々は事の是非を論じに行き、毎週日曜日の法を広める催しを普通どおりにやるようにしました。我々は幾度となく交流会を開きましたが、みんなは大法が正しいものであり、生命を持って法を守るのが我々の責任であると示し、真相を説明する手紙を政府部門へ郵送しました。

  三、狂ったような迫害に直面し、転んでは立ち上がり、法を実証する

  1999年7月20日、大法と大法弟子に対する邪悪の弾圧が始まりました。他の省や市の輔導站の站長と同じように、私も真っ先に迫害の対象となりました。7月19日の夜「話したいことがあるから来てほしい」と、市の公安局におびき出され、強制連行されて、留置場で何度も不法に尋問されました。私が何も答えないので、迫害がエスカレートし、彼らは受刑者を利用して、衣食住の各方面から私を迫害しました。夜は寝かせなかったり、昼間はトイレへ行かせなかったりして、市の政法委員会、宣伝部、テレビ局、職場の責任者が連携して洗脳し、「転向」させようとしました。4.25以降、事務的な事に忙しくて、法の学習を疎かにしたせいで、私は本心に逆らって、腕は太股をひねることができないとか、嘘をついてもいいから、ここで修煉を辞めると言っておいて、あとで家に帰ってからすきにすればいいという屁理屈に騙されて曲げてしまいました。後で私のこれらの言行を編集されてナレーションをつけてテレビで放送され、大法弟子の信念を揺るがし、衆生を毒害することに使われてしまいました。今私は悟ったのですが、人の一面に頼って邪悪の迫害に耐えようと思えば、それは絶対に乗り越えられないのです。

  十何日間か拘禁されてから私は釈放されて家に帰りましたが、修煉者、特に大法修煉者として絶対やってはいけないことをやったしまった時の苦痛、それから落ちてからの体の状態を痛切に感じました。もうこれからどんなに補っても大法にもたらした損失を挽回できない、この汚点をきれいに洗浄できないと思い込んでいました。

  師父がヒントを与えてくださったおかげで、私は法の学習を多くしたり、同修と交流したりしてから、関係部門と職場へ行って、大法を修める心が確固として揺るがないことを改めて表明しました。しかし、自分を実証する心を持っていたため、再び邪悪に隙に付け入られ、9月8日の夜、私はまた市公安局に強制連行され、今度は不法に5カ月近く拘禁されました。最後に私は体中に疥癬ができて、しょっちゅう下痢をしたため、「煉功はいいが、北京へ陳情に行ってはいけない」を条件に1999年12月31日に釈放されました。

  2000年5月22日、明慧ネットで師父の新しい経文『心自明』が発表されました。それを学んでから、自分にやはり放下できない人心を持っていたため、生死をまだ放下していないということをはっきり分かるようになりました。明慧ネットで報道された双城市の大法弟子・周志昌さんが大法への信仰をやめない為、迫害され、死亡してしまったという記事を読んで、私はとても辛く思い、何時間も泣いて、大法の要求との差、精進する同修との差をはっきり見ました。慈悲深い師父は私を見捨てることなく、色々な方法を通して励ましてくださったおかげで、私は再び立ち上がりました。大法が破壊された時、師父が誹謗中傷された時、我々がどうすべきかを主題に地元で交流会を開き、その結果、殆どの同修は表に出て、大法を守るのが我々の責務だと認識するようになりました。ある日、ある同修から「よく北京へ法を守りに行くべきだと言っているのに、なぜ自分が行かないのですか」と言われて、それは師父が同修の口を借りてヒントを与えてくださったのだとすぐ分かりました。そこで、わたしは北京へ法を守りに行くことを決めました。

  2000年6月のある日の夜、私は一晩中まんじりともしませんでした。今までの人生が映画のように頭に浮かんできて、何れも名誉、利益、情けにかかわることでした。私はその一つ一つを法に則って考えてみましたが、師父は「ならば、一人の修煉者として、一切の有利な条件を利用し、大法を弘め、大法が正しいもので、真の科学であり、説教と唯心論ではないということを証明せねばならぬ。これはすべての修煉者が自分の任務とすべきことである。この洪大なる佛法がなければ、宇宙のマクロからミクロまでをも含め、さらには常人社会の一切の知識に至る一切までないのである」(『精進要旨』「証実」)とおっしゃいました。そこで、宇宙のすべてがなければ、勿論自分のすべても存在するはずがないと私は思いました。このようにそれらの執着を全部放下したら、私はかつてない軽快さを感じました。

  途中で止められないように、私は先ずタクシーで省都へ行きました。もともと省都で昔知り合った同修と切磋琢磨しようと思いましたが、彼は既に強制連行されてしまいました。そこで、私はもう1人の同修と交流しました。「北京へ行ってどうするつもりですか?」と聞かれ、「陳情事務局へ行っても意味がありませんから、天安門へ行くつもりです」と私は答えました。そうすると、既に仕上げた横断幕があるから、それを持っていきなさいとその同修は言いました。私はとても嬉しくて、師父は既に何でも用意してくださったのだと思いました。私はその横断幕を持って北京行きの汽車に乗りました。

  翌日の朝、私は天安門広場に行きました。9時頃「法輪大法が素晴らしい」という横断幕を開きました。その日、天安門広場で横断幕を開く同修がとても多かったのです。我々は何十人もの人々が前門派出所に連れて行かれました。元々私は自分の名前を名乗らないつもりでしたが、転んだところから立ち上がろうと考えを変えて(自己を実証する心)、自分の名前と住所を教えました。それで私は当地の北京駐在事務所に連れていかれました。

  前回法を学べない教訓を汲んだので、地元の留置場に連れ戻された時、私は生死の一念を放下して、師父の経文と『洪吟』を持ち込むことを許されました。留置場にいる間、私は毎日経文と『洪吟』を暗誦しました。しまいに私は不法に3年間の労働教養を言い渡されました。当時労働教養所では強制的な手段で修煉を放棄させようとしていました。ある日、労働教養所で一番邪悪と言われている所長が来て、私を「転向」させようとしました。私は彼と2時間くらい話し合いましたが、師父のご加護の下で、私に問い詰められて、彼は返す言葉がなくなり唇を震わせながら、「あなたのような人に初めて会った」と一言言ったきりで、部屋を出て行きました。それからの半年の間、私は単独で拘禁されました。私はこの条件を利用し、経文と『洪吟』を清書してから、何とかして他の同修に渡し、それから絶えず法を暗証するようにしました。

  その後労働教養所の教育課長はまた「転向」させようと来ましたが、本題に入るや否や、彼は「もうあなたとは話したくないから、最近の感想を文章に書いて提出していいです」と言いました。すると、私は四つの方面から随分と長い手紙を書きました。それは、(一)私は大法を学んでから、実に得るところが多大である。(二)北京へ陳情に行くことは間違いではない。(三)一体どちらに間違いがあるのか?(四)「転向」させる目的はどんなものであるかと言うことでした。それから半年の間、私はずっと煉功したり、法を学んだりしましたが、誰にも干渉されませんでした。

  ある日、急に私は12人部屋から70数人の部屋に引っ越しましたが、私を除いて皆刑事犯でした。私が煉功できる場所は部屋の真ん中にあるちょっとした空間であり、警察は隣の部屋から窓越しに監視しているのです。私がその部屋に移った翌日、「労働教養所では煉功してはいけない。特にこの大きい部屋では、当番の警察の前ではもっと許されないから、煉功を辞めろ」と隊長が言いました。

  すると、私は「煉功は全然間違っていない。煉功させてくれないと、それは私を死に追いやるのと同じだ」と彼らに言い返しました。その日の夜、私は普通どおりに煉功しましたが、監視役をする2人の刑事犯に無理矢理止められました。そこで、私は心の中で師父に向かって「こうしてみれば、命を以って法を実証するしかない」と言いました。その時私は全然圧力を感じておらず、かえって生死を放下した喜びさえ感じました。後で私はただ一度食事をしないだけで、指導員が慌ててしまい、特別に作ってくれたおかずやご飯を持ってやってきて、「兄さん、隊長にも苦衷があるから、理解してあげてほしいです。自分が謝罪に来るのはちょっと不具合なので、彼に代わって謝ります。これからは好き勝手に煉功しなさい」と言ってくれました。これ以降はもう煉功に干渉する人がいなくなったのです。

  ある日、同修が面会に来た時、どうにかして出てくるようにすべきだと言ってくれました。しかし、「ここはとてもいいよ。法の学習も煉功も全然問題はない」と答えました。(後で分かったのですが、当時のたくさんの考えはまだ個人修煉の段階に留まり、自分が自由に法を学んだり煉功したりすることができれば、それでいいと思ったのです)後で、同修は師父の新しい経文『提案』『大法弟子の正念は威力あるものである』『弟子の偉大さ』を渡してくれました。新しい経文を学んでから、法を正す修煉に対して少しずつ認識するようになってきました。捕まるのが目的でもなければ、監獄は修煉のよい場所でもない。抜け出して真相を伝えに行くべきだと分かってきました。その時、私は不法に拘禁されてもう1年半経ちましたが、健康診断を受けた時、身体に病状が現れました。それにも拘らず、釈放してくれないので、私は絶食することにしました。すると、絶食して5日になった時、私は一時出所の形で釈放されました。

  2002年、長春の大法弟子がテレビを利用して真相を伝えてから、我々の地区の邪悪も気が狂ったように、大法弟子を強制連行する事件が連発しました。私は労働教養所を抜け出してから、急いで資料点を作り、大法の学習を疎かにしていたせいもありますが、よその地区で強制連行された同修が私から資料をもらったことを言ってしまったので、私は仕方なく放浪して、身を落ち着けるところがなくなりました。

  邪悪は何万元の賞金を出して私を指名手配しました。その時、表に出てくる同修がまだ少なかったし、資料点も破壊されたので、私は何人かの同修とわが市と周辺地区の協調役を担当し、昼間の間交流会を開き、夜の間に資料を作るようにしました。法を学ぶ時間が少なくて、色々な執着心が現れてきたのに、まだ気づきませんでした。特に自分に執着する心がとても強くて、反対の意見に耳を貸そうとせず、同修にこの問題を指摘されると、また大法を口実に自分の執着を隠そうとしたのです。師父のおっしゃった「一人の修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩はみな関を乗り越えることであり、遭遇した一切のほめたたえは、みな試練なのである」(『精進要旨』「修煉者自らその中にあり」)を完全に忘れてしまいました。そのせいで、邪悪に迫害の口実を与えてしまい、ある同修が強制連行されてから、私の住所を言ってしまい、私は再び強制連行されてしまいました。

  公安局は、三つのグループに分けて三交代で尋問し、グループごとに何人かの手先を入れていました。私は所謂常人の勇気を正念と思い込んで、耐えようとしました。しかし、拷問された時、自分の忍耐の限界になって、もうそれ以上耐えられませんでした。その時、私は師父を思い出しました。と同時に、師父は旧勢力を否定する法理も私の頭に打ち込んでくださいました。「宇宙の生命は皆位置を配置し直されています。人にこの大法を試す資格がありません。神にもありません。あえて試した人がいたら、それがその人の罪です。このことも彼らには分かっています」(『導航』「李洪志先生の北アメリカ五大湖地区交流会における説法」)そこで、私は身体中の力を尽くして「師父!」と叫びました。

  そうしたら、拷問している2人の警察が同時に私を吊るしている紐を手放したので、私は床に落ちました。その瞬間、空気も凍りついたようでした。どのくらい経ったか分かりませんが、「彼を何か叫んだのか?」と1人の警察がもう1人の警察に聞きました。「師父と叫んだらしいな」とその警察が答えました。その後彼らはまた拷問しようとしましたが、私は急に気を失ってしまいました。

  翌日、彼らはただ尋問するだけで、拷問しなくなりました。私が眠くなると、また寝かせてくれました。2日間尋問されて、何の供述もないのに、私はやはり留置場に送られて、拘禁されました。しかし、何も根拠がないので、彼らはどうにもならないと思って、正念を緩めたせいで、彼らが事実を捏造して、十数年の重刑を下しました。それは旧勢力の按排で、認めてはいけないと分かっているので、3回も絶食して抗議しました。ところが、あんな環境では法が学べないため、肝心な時にやはり人心が動かされてしまいました。ある日訳もなく、私の部屋の全員が引っ越しました。すると、今度隣の部屋にいる同修から『転法輪』と新しい経文をもらいました。それは慈悲深い師父が段取りしてくださったのだと後で私は悟りました。新しい経文を学んで、それから後で来る同修との交流を通して、抜け出せなかった原因が分かるようになりました。

  師父は「明慧ネットにこういう文章を掲載されたことがあります。ある学習者はどこに行っても大法の真相を伝え、『大法が良い』と言っており、どこに連れて行かれても、悪徳な警察が何を言っても聞かないのです。いくらひどく罵られても殴られても、このようにしていました。労働教養所は恐れてしまい、この人は要らないとすぐに派出所に返しました。彼女を転向させるどころか、かえって彼女が多くの人々に影響してしまい、ボーナスももらえなくなるとそれらは思います。(皆笑って) 仕方がないので、派出所も彼女を拘束するところがないので、家に帰らせました」。 

 「表面から見ると人間の表れのように見えますが、実は違います。修煉がそこまでできたからです。本当にその境地に達したからです。捕まえられたら、帰ることを考えたこともありません。ここに来たからには私は法を実証します、という情況です。それで邪悪も怖くなります」(『各地での講法三』『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)とおっしゃいましたが、私は早く留置場を抜け出し、大法を実証し、衆生を救い済度することを口実にして苦痛を嘗めたくないという心が隠れていると気づくようになりました。そこで、私は師父の教示された通り、法を実証することだけを考え、自分のすべてを皆師父に段取りしていただけるようにしたら、3カ月後には一時出所の形で釈放されました。

 (つづく)

 (明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会原稿)

 2008年12月20日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/24/190320.html